[南場智子] 不格好経営

フジタさんのも読んだことだしそろそろ読み切ろう Φ なぜ川田とナベを誘ったのか、ということをよく訊かれるが、ごたごた言ってもしょせん後付に聞こえるし、面倒くさいので、最初に目が合ったから、などとかわしている。 ふたりに対する感謝の気持は、言葉にして安っぽくしてしまうのが怖いくらい、私にとっては神聖なものだ。このふたりを選んだ時点で、DeNAはたとえ時間がかかってもいい会社に育ってゆく運命を半分手中に収められたと思う。それを本書で十分伝えられるだろうか。 調整ではなく決めるのが仕事であること 最後は自分の腹に聞くことを教わった気がする やっぱり世の中、一番よれよれな人が一番頼りになるのである。 社長というのは、一瞬にしてものをつくり出すことはできないが、一瞬にして破壊することはできるので、気をつけねばならない。 私はDeNAという会社がとても好きだ。 その一番の理由であるDeNA内部の清々しさ、気持ちのよさは、川田の人格と仕事へのスタンスがべったり組織に乗り移ったものだと思っている。 誰よりも働く、人を責めない、人格を認める、スター社員に嬉々とする、トラブルにも嬉々とする。 新しい技術は、新しい遊び方、新しい事業を生む。 すると新しい課題が発生し、事業者は軌道修正を求められる。 この循環はワンショットではなく、イノベーションがある限り続いていく。 今後も新しい問題は必ず起きる、いや、今すでに起こっていると覚悟するべきだ。 事業者は、問題を起こさないようにびくびくするよりも、新しい問題にアンテナを張り巡らし、積極的にユーザーや社会、行政と対話しつつ柔軟に対処し続ける姿勢と能力を持つことが重要だ。 そしてこの動きは、企業単体よりも業界で団結して取り組んだほうが社会に対して有効である。 そして、創業期から一貫して多大な時間とエネルギーを費やしてきたのが採用活動である。 DeNAの競争力の源泉は、とよく訊かれるが、答えは間違いなく「人材の質」だ。 人材の質を最高レベルに保つためには、①最高の人材を採用し、②その人材が育ち、実力をつけ、③実力のある人材が埋もれずにステージに乗って輝き、④だから辞めない、という要素を満たすことが必要だ。 私をこき使わなければ、私がこき使うよ、などとよく脅しているが、自分の仕事にオーナーシップを持っているメンバーは、必要な仕事を進めるために使えるものは有効に使うので、そこに社長が含まれている場合も多い。 できる限り賢く見られようとする姿勢。 これは事業では一銭の得にもならない。 会社を経営しているといくつもいくつも修羅場をくぐる。 自分のアホさをさらけ出してでも助けてもらわなければ切り抜けられないことがあまりにも多いのだ。

2014年11月7日 · 1 分 · 25 文字 · Keito Fukushima

[日本経済新聞社] 日本の経営者

小林一三 事業を成功させるにはプロデューサーが「いざとなれば何でもできる」多彩さと気迫と人脈を持つ必要がある。 私も万国博覧会や沖縄観光開発などを担当してそれを痛感した。 政治は経済ほどに信用されない。 政治力で補助金や寄付金を集めても長期的な信用を得られない。 だからこれに生涯をかける人材が集まらない。 それに比べて大衆に人気があり経済的に 報われる業種には、スター志願の若者がワッと集まる。 小林の始めた宝塚は後者だった。 反対者も抵抗者も所詮はより良いものを作りたいのだから、事業が進んでいれば必ず戻ってくる。 本当に困るのはより良いものを作る意欲と感覚のない傍観者なのだ。 小林市三の周辺にも安全や品格を口実に何もしない経営者が何人も登場する。 小林は、そんな人物だけは口をきわめて非難している。 φ 松永安左エ門 松永安左エ門の95年余の生涯できわだっているのは自らの事業の節目、(経営難や競争での敗北など)ごとに俗世間から引き下がって寓居での隠遁生活を送り、その間に読書や茶道などに没頭して知的肉体的エネルギーを蓄積し、次の活躍の場に打って出たことである。 いうならば生まれ変わりをたびたび行っている。 映画でイノベーションのことをボーンアゲインと言い換えることがあるが、松永は明治、大正、昭和と続く日本資本主義のイノベーションの波に合わせるかのように自己革新の節目を作っている これはアントレプレナーの歴史として注目すべきことである まずその紹介の節目に至るまでの若き永松の軌跡をたどってみたい。 その季節に彼の事業経営の原点があるからである。 松永安左エ門はその生涯の節目において時代の本質を洞察する鋭い力を示し、かつそれを現実の成果として実らせてきた。 この洞察力の源泉はどこにあったのか。 彼の伝記などからうかがえる奔放な印象とは異なり、それは意外にも「研究」にあったのではないか。 そうはいっても普通の学者研究者が為すような研究ではなく、時代を見抜くための研究である。 その素質は若い頃からあったようで、ライバルでもあった福沢桃介にこういわせている。 「研究にかけては俺も人後に落ちるぬつもりだが、松永の徹底した研究ぶりには兜を脱ぐ」 学者まかせの研究提言ではなく、自ら委員会で鋭い発言をし、虫眼鏡で資料食い入るように見る研究の鬼 であった。 既存体制に不均衡がある時こそシュンペーターの言う「創造的破壊」が必要だ。 しかし背後には新しい事業機会を見抜く創造的知識が必要になる。 松永は、そうした「知」を研ぎ澄まして創造的破壊を実践した稀代の実業家であった。

2014年10月22日 · 1 分 · 32 文字 · Keito Fukushima

[フランク=ディケーター] 毛沢東の大飢饉

毛沢東の大飢饉 史上最も悲惨で破壊的な人災 1958-1962 フランク・ディケーター     スターリン → 毛沢東 → ポルポトのコンボを調べている。 元々は成毛眞氏の「面白い本」で興味を持ったお話   φ   1958年〜1962年にかけて中国は地獄に落ちて行った 大躍進 15年以内に中国は英国に追いつき、追い越す   農民は人民公社に組み込まれ、全てが集団化された 共同食堂での食料の供給が、党の指令に人々を従わせる武器になった 4500万人が死んだ   あらゆる階層の人々が集団化という全体計画から逃れようとした 『飢饉が広がるに連れて普通の人々がいきのこれるかどうかは、嘘をつく、取りいる、隠す、盗む、騙す、おうりょうする、略奪する、密輸する、ごまかす、たくみにあやつる、差もなければ国を出し抜くと言った能力の有無にかかって行った』 こう言った手法のせいで、逆に政権の寿命を引き延ばす結果に繋がった   三門峡ダム ほぼすべての土掘りが無駄だったw なんだろうもう、こいつら冷静にトリップしてるだけじゃないのか……??   中国全体が一つの舞台だった。全人民が毛沢東向けの華やかなショーの出演者だった   こどもがクレヨンで描いたチャチな夢物語を無知のまま妄執のように実行したらやっぱり失敗した感じの印象を受ける やっぱりひとの気持ちを踏み躙るようなことをしてはならない   根本的に何かを改善するには3世代掛かる しかし国というリヴァイアサンが狂うとこうも簡単に転がり落ちる 縛っておいたほうが国民としては安全だ   社会主義も資本主義も欠点はきっとある 資本主義の欠点は多分、給与のバランス? 日本はどう足掻いても国内で食料が足りなくなると思うんだけど   『没落を前に見栄を張るのはお定まりのパターンだ』   『大量飢餓の時期に自力で生き延びる最も一般的な術は「希望」という名のシンプルな方策だった 村の状況がいかに逼迫していようと、毛主席は心底人民の利益を優先してくれるに違いないという希望だ。 皇帝の時代には、皇帝は慈悲深いが取り巻きは堕落しているという考え方が根付いていた。 中華人民共和国では尚更だった。 人々は現実に起きている日々の悲劇とメディアの喧伝するユートピアとの折り合いを付けなければならなかった。 そして、虐待の限りを尽くす幹部らは慈悲深い主席の命令を実行しない輩だという確信が生まれた。 人々の暮らす世界から遠く離れた「政府」と称される存在と「毛」と称される神にも匹敵するような存在は善だった。 もしも毛沢東がそこに気づいてさえいれば、全ては違っていただろう』   ……子供が理不尽に泣く世界は間違っているさ 暴力が支配する状態では高潔なものから死んでいく   φ   ≪概要とか≫ なんとなくだけれど、本としては「なんか調べていたらあまりにもえげつないことが分かったから、ちゃんと調べたら本当にやばかった(とてもヒトコトでは言い表せなかった)から理路整然と記述した」という印象を受ける。 非常にアメリカ的な(サイエンス至上主義的な)本だと思う。日本人には中々書くことが出来ないと思う、 これはきっと買っても損はしない類の本。   とりあえず1960~1963年の中国はそれなりに把握した気がする。 正義に目覚めると殺される、当然のことを言うことが出来ない世界。 被害妄想狂に振り回された国家。 なんで自分の非を認めないんだろう? 範囲が大きすぎたのかな? ...

2014年5月29日 · 1 分 · 86 文字 · Keito Fukushima

ENTP型:次から次へと挑戦する

ENTP型:次から次へと挑戦する 創意に富んでいて、本職であろうと余技であろうと、いろいろな活動に手を出す。 際限なく可能性をみいだすN型に、客観的に決断をくだすT型と外向的なE型があいまって、何をやっても新しい着想や夢のような計画を持ち出す。 EP型はたいていそうだが、ENTP型も、すでにあるアイデアを実行に移してやり遂げるよりも、新しいアイデアを追い求めるほうが楽しいと思う。 しかも、この世はチェス盤のようなもので、みんながうまくいくように駒をーそれも自分がー動かすべきだと思っている。 とどのつまりは自分だけでなくほかの人も巻き込み、新しいことに次から次へと挑戦する結果となり、悪くすると、きりなく夢を追って中途半端に終わってしまいかねない。 家庭にしろ職場にしろ趣味にしろ、それがどんなにうまくいっていても、もっとよくできるはずだと思う。 また、一か八かやってみるタイプなので、うまくいけば大もうけをするが、失敗するとすってんてんになる。 だから、ENTP型の人生は(本人だけでなく、周りの人たちにとっても)、予測できないアップダウンや急カーブが続く、スリルに満ちたジェットコースターのような人生になる。 一般にT型の女性は社会で流れに逆らって生きる傾向があるが、ENTP型だとことのほか厄介である。 客観的な面が、当意即妙の頭の良さや競争心、議論好きなどの形であらわれると、たいていの男性から敬遠されてしまう。 とくに古めかしいシステムや人物を相手にすると、ついその限界を試してみるたちである。 競ったり試したりする性質は人を萎縮させたりうんざりさせたりするが、面白いことに、ENTP型の男性の場合は、その同じ性質がプラスのイメージに見られる。 もっとも、違うタイプの人をうんざりさせるという点ではかわりない。 親子関係 ENTP型は、親というのは子どもに発達し成長する機会を与えてやるものだと考えている。 だから、家のなかには最新の本やアイデア商品や流行の物があふれていて、子どもにきちんとしたりスケジュールを守らせたりするよりも、こうしたものに挑戦させる。 「自分を伸ばす」のをモットーとして、子どもがそうする手助けをするのが親の務めだと思っている。 子どもがついていけないほどの思いつきや可能性を毎日のように示し、子どもが自分の力を知って伸ばすのに手をかすことが愛情の表われだと思っているので、抱きしめたりキスをしたりといった愛情表現を犠牲にしてまで、その方針を貫こうとする。 挑戦や新しい着想を大事にするので、落ち着きのない暮らしぶりになってしまう。 ENTP型の子どもの場合は、それがつむじ風のような目まぐるしい行動になって表われる。 毎日が何かを工夫したり、友達をつくったり、夢のような計画を立てるチヤンスとなる。 たとえば「ごみを出してちょうだい」と親から頼まれただけで、人手を使わずに台所から裏庭へごみを出す方法を考えて何時間も過ごしたりする。 しかも、それは友達を呼んできたり、あれこれ実験してみなければならないような工夫なのである。 それは勉強のしかたにも表われる。教えてもらうより、自分でやってみて学ぶほうだ。 それもグループでアイデアを交換したり、意見をたたかわせたり、挑戦するのを好む。 決まりきったことや決められたものには退屈するたちなので、宿題は忘れるか、さっさとやってもいいかげんになりやすい。 つまらないものや挑戦のしがいのないものだと、「勉強」と称して自分で変えてしまうこともある。 こうした行動はタイプの違う生徒や先生にフラストレーションを起こさせ、けっしてよい結果にはつながらない。 ENTP型の生徒はそうした先生に敬意を払わなくなり、成績もかんばしくなくなる恐れがある。

2014年4月22日 · 1 分 · 30 文字 · Keito Fukushima

Think About "Everything"

汝、全てのことを考えよ 多く考えきった人間が一番強いと思う。……少なくとも俺は。 重ねた言葉の数だけソイツの人間としての深みは増すと思うのだ。 φ ≪理念≫ この世界の思いつき得る全てのことについて、一通りの考えを照らしてゆこうかと (正面切って何かをやると俺は失敗するので、何事も秘密裏に自分の中のルールで、尚且つ絶技的におもしろく) ”俺にとって面白いこと”を、俺のためにする、ってのが、この世界では基本的には許されてるのに、どうも制限を受けていたように感じていた(多分親元で生活を縛られるというのはそういうこと) 最近思ったのだけれど、 「この世界で取り返しのつかないこと」というのは、多分「人の生き死に」以外はあんまり無くて、 それ以外は本質的には「自分を責めるだけムダ」 なのに何故か自分が悪いことをしているような気になってしまう。 そういうのはもう止めだ止め。 だって面白くねぇもん。 ”What Do you care The other people think?” っつーのが俺はやっぱ好きだな。 他人に迷惑がかからない範囲では、(そのことをひと通り考えたなら)まぁ他人がどう思うかなんて、結局どうでもいいんだよね φ 自己確認の意識も在って、ちょっと長くなってしまった φ +(メリット) 就活(対文系スキル?) 楽しい(割とオレの本質) 下宿はじめたし、時間が在る -(デメリット) 考えることが多い(MPガガガ φ スタンス: イケるのならば、会話文。やっぱ脳内氷上との会話がオレの思考のレイアウトとして一番自然 そこまで行かないのならば、とりあえず、 ”それはオレにとっての”何””に及ぶまで思考を重ねる ※ ただし、プリズムシンクで多面的、物語的に捉えるものとする φ ☆ 対象は何でもいい、思いつくこと全てに対して遊んでみる φ ≪手数≫ 基本的には、A4レベルのちょっといい紙に速記で。 適宜変えて良いけど、”紙”,”書く”は守る 保守のために, 一議題(1タイトル)”まとまった” ら記事≪Article≫にする タグとして、Think About “Everything” を必ず付与 まぁ気が向いたら本にでもしましょう さぁやってみよう

2014年4月22日 · 1 分 · 56 文字 · Keito Fukushima

大学院生活 4月中旬

先週までは、なんというか「京大生になる為の手続き」で終わった感じがw 奨学金の書類がウルトラ面倒だった。いやしかしやっぱりお金は要るよ。未来の俺よ。ちゃんと稼ぎたまへ 今色々と面倒なのは、片付けなければならない書類仕事の量が多いから φ 無から有を生み出すってのはどうもなかなか難しい様だ。というか、事象として「無」ってのがどうも真理すぎて難しいさね、いや、真理は「空」か。 価値というのは上乗せか維持することでのみ生じる? いや、これも極論か。 自分が働いてる姿が想像出来ないっつーのは、自分が「圧倒的なまでの価値」を「何か」に乗せることが出来る姿を想像出来ないっていう所に、謂わば行き着くのだと思う。 決して自分を価値のない人間だとは思わないのだけれど(そいつもやっぱり極論だ)、マネタイズの面では割とまだ無能というか、誰かの為になる行為というのはカウンセリングとエンカレッジ位しかしてねぇなぁ〜と思う 働くというのは獲得と貢献の連続なのだと思う。 チームプレイにアサインして来なかった俺は根源的に個人技の人間なのだと思う。 価値ってなんだ、無かったもの? 見出されなかったもの、レアなもの、なかなか手に入らないもの。 正しい予想と予測と、それに直面した時のための準備?? 俺に出来ることは根本的にはやっぱり交渉事とか暴力とかそういうところなのかなーとか思う。 ああ、最近は知識の流入のペースを落としていたなぁ、なんとかしなくては。簡単だ。タスクに塗れて読めばいい。 一意専心は俺の性質に合わないけれど、俺の上に乗る荷物というのはまぁ軽めがいいなぁ〜、とも思う。 φ そしてまぁ、なにより俺は院試に落ちたことで下がりに下がった俺の格の様なものを取り戻しては居ねぇなぁ、と φ この間、夜に散歩していて思ったけれど、京都は舞さんが生きた街なんだ。 φ 今の俺は強く在れてねぇなぁ

2014年4月20日 · 1 分 · 23 文字 · Keito Fukushima

ランニング

走って走って本棚を買おう 本棚 8000円 2kmごとに500円 メリット 体調++ 生活習慣++ 近所のMAPが頭に入る 肌のトラブル解決 頭にエンジン入る 仕事の効率が上がる 夜眠れる 食べ過ぎなくなる 痩せる デメリット めんどい 朝起きられない ……、習慣化は小さなことから。 とりあえず朝布団を片付けて、……的な

2014年4月3日 · 1 分 · 19 文字 · Keito Fukushima

相手に得をさせた様な気分にする話し方

どんな会話の仕方をすれば、頭が良くなったとかんじるか?? まだ答えはやっぱり分からないけれど、 圧倒的な知識知恵 相手の言いたいことを把握して、その少し先を話す 少しだけ相手に分からないように話す そして黙る こんなところだろうか……、後はまだ分からない

2014年3月16日 · 1 分 · 7 文字 · Keito Fukushima

お金と我慢と楽しさ

すればするほど欲しくなる φ 昔、物欲も三欲に入らないことが不思議だった。 今では、まぁ、理由はなんとなくわかる気がする。 欲に限らず、捨てれば捨てるほど逆に生きやすくなるのかもしれない。 シンプルさにかこつけて記述するけれど、 デザインが金になることを体感したのは、iPhoneを持ってからだった。……、ああ、これは、金になるわ、と。 機能性と簡易さと……いろんなものが入ってるのに、それはそれは簡単な形をしている。 φ 年々、欲しいもののクオリティが上がるのだけれど(家とか土地とか嫁さんとか)、満足のグレードは段々と下がってゆく感じがする。(これも悟りの一種か) 我慢を覚えている訳では無いと思うが。……この感覚はうまく言葉にできないなぁ、世界が広がった、のかもしれないなぁ(これもこれで抽象的極まりない言葉だ) 世の中には自分よりも不幸な人がいっぱい居て、それと同時に自分よりも幸福な人もやや沢山いる。(あまり差別的な表現は好きではないが、日本という土地に生まれた時点である程度のイージーモードは保証されることを知ったというか) 野菜が美味しく感じるようになって、やりたいことと知りたいことは増える一方。同時に金と名誉が欲しくなって、その両方が圧倒的に足りないことを不服に感じる。 経済の基本は欠乏だろう。足りない。足りない。だから欲しい。用意するのは対価。お金。 金銭感覚は未だに正しく身についている気はしない。 (この場合の正しさっつーのは、いわばこれだけ使えばこれだけ残ってて……、という肌感覚だね。どうも整理整頓が肝要な気がする。今の俺には、どうも物が多過ぎる嫌いがあるにゃー) 俺の価値基準の基本は、相変わらず氷上の姫さんだ。 「物質的なものに未練を抱いてはいけませんよ」 というのが例によってあまりに深すぎる彼女の言だが俺はまだここまで至れてはいまい。(いや、感覚としては分かるのだ。彼女は俺の精魂込めたノートを一冊残らず笑顔で焼き払った) 物質的なものに未練を抱かない、というのは、ある種諦念の様なものを感じる。 その考えは美しいのだけれど、どうも難しい(というか、“色々あって最終的に至るところ"のような気がする。ーー洗練の前には必ず浪費があるように。 口惜しいことこの上ないが、師匠はこいつを体現していたように思う。憧れるが腹が立つ。なんだあれ。 最近読んだ新書に「Amazonを、“金を払えばいつでも保管してある荷物を引き出せる巨大倉庫と考えたらどうだろうか”、」という割とアレな極論がまことしやかに書いてあって、ちょっと笑った。いや、極論だけれどいい考えだと思う。 φ 今の俺の金銭感覚は等身大のものより大きいものな気がする。……それが俺の器の大きさを潜在的に示しているものであれば良いのだけれど。 価値のあるものにはキチンとした対価が要る。 対価が用意できないのならば、それは身の程を弁えて居ない醜悪なものであろう。 一方で欲を持たないのも俺にはどうも歪なものに思える。 要はこれもまたバランスだろう。 俺の大事な義妹が昔どっかで宣言してたのを思い出した。 「いっぱい稼ぐ!!」 金のある人のところに金が集まるのはまだいい。努力だろう。しかし、労働やモノの対価ではない、金と金の渡し舟でどうかして上手く稼ぐ人間が最も金を多く持つという、世相には資本主義のどうかした矛盾のようなものを感じる。……、そんなのは頭脳労働とは決して言えないし(だってサイエンスのように新しいものを彼らは決してその(逆説的に消費とも言える)行為から生み出さない) リスクを負えばいいという話でもあるまい……、まぁ、よくわからないことに口を出すべきではないか。 師匠は昔、「どんな時でも、金はあるところには有るんだ。……だから何処に何があるか正しく見極めて、そいつからそいつに損と自覚させないようにぶんどる。手段はなんでもいいさ、“損をさせない限り"な。損をさせる時は殺して殺される覚悟を決める時だけだな。これも等しく戦争だ」 なんて渡世人極まりないセリフを狂言回していたけれど、一部においては事実に思える。ーー極論だが。 また長くなってしまった。……結論は、そうだな。 職業に貴賤はないし、金の有る無しでその人の価値は測れない。 しかし、どんな形であれ、極端な支援を受けず、労働し、家計を支えて自活していけるのならば、その人とその人の金銭感覚は尊敬に値する様に思う。 ……、少なくとも、学生の身分で、安定収入がなく、金も地位も名誉も持ち合わせない今の俺は、そう思う。 追筆; 子供の教育費 俺は一人っ子だから、俺の母親は俺に二人分は使った、と豪語している。 まぁ全てが有意に実ったとは俺は口が裂けても言わないが、俺はそれだけの心血を俺に注いでくれ続けたことには、両親に対して尊敬と感謝の念を禁じえない。 しかしまぁ、(受けた側の)俺からしたら、それなりに不満は有るし、必要だったのかなー、と空々しく思うことも少なくなかったりもする。 家庭教師をしたのだ。塾講師として関わった生徒たちのことを感情に入れると、10人以上の生徒に関わった。(こんなはずではなかった。10人は、俺にとっては多いよ) これは俺の中で、「成長期の教育」っつージャンルで割と興味のあることで、延長線上(大元)には「俺に対する教育ってあんなにひつようだったのかよぅ?」っていう疑問があったりもする。 中高大と、俺の友人にはそれなり以上に優秀な人間が居て、俺はそいつらから俺なりに習慣や思想のようなものをパクりまくっていい感じに成長したと自負しているけれど、なんというか、そういう(1を聞いて10を知る、とまでは言わないけれど、5.6位までならば思い至る、と言ったような)“カン"が、よくない生徒は、あまり成績も振るわない気がする。 何事にも成功しやすい人間っつーのは、きっと習慣から作られてると俺は当たりをつけて、ユダヤ人の思想とか、古人の名著とかを読んでみたけれど、一番小難しくしっくりくるのは五輪書だった(話が逸れたな。この話は改めて。) 結局は熟練度というのは繰り返しに終始するが、その繰り返しがどういうところから来てどういう処へ向かうのか(つまり、何をすればどういう結果になるのか)、とか、 朧げながらにでも目的のようなものが想像できる子はそれなりに成長したように思う。(後は逆に盲目に淡々と熟せる人間も) 俺の動機が俺にはまだ分からない(ままここまで来てしまったのはちょっと謎なんだが) それが今の延長にあると良いのだけれど。 俺にはまだ分からない。

2014年3月8日 · 1 分 · 53 文字 · Keito Fukushima

What Do You Care What Other People Think?

「他人がどう思ったって構わないじゃない?」 アーリーン=ファインマン φ 卒論が終わりました。 卒論関係については3記事くらいに分けてがんばってまとめるとして、(使ったツールとか、時期ごとに何やってたかとか、反省とかをば) 今回はブログもなにもやってなかった空白の期間に考えたこととかをちょっと言葉にまとめておこうかと。 φ (4月頃から) 研究室配属が終わって、希望通りの研究室に配属されて(授業もなく)わりと暇になった俺は、今更ながら物理学とかコンピュータの開発された系譜みたいなのを調べはじめた。 そんなときにふと引き当てたのがこの本 ファインマンさんは超天才 リチャード=ファインマンの名前は、学部一年生の頃に(超苦労して取った)力学の授業で使ってた教科書でチラッと見た(しかも超ひねくれた問題のひねくれた解説の参考図書として)くらいで、俺はよく知らなかったんだけれど、この本を読んで一発で彼の人格と思想の虜になった。 φ タイトルこそ邦題では「超天才」なんてざっくばらんな訳になっているけれども(いや、大貫昌子さんの訳は全体的にファインマンのざっくばらんさ(率直さ?)のようなものをよく表していて、文句なく素晴らしいことをここに添えておく) クリストファー=サイクスの原題では、「No Ordinary Genius(ちょっと普通じゃない感じの天才)」ってなってて、俺的にはファインマンはニュアンスとしてはこっちのほうが気に入るんじゃないかなぁ~なんて思わなくもなかったり。 本書の構成は、ファインマンのセリフや、ファインマンの周りの人物へのインタビューを折々に挟むことで、1つのタイトルや事柄について、まるでファインマンと(ファインマンに関わりの深い人達と)一緒に話しているかのように感じさせるものになっている。 個人的には、アメリカ的な非常におもしろいジャーナリズムの様相を呈しているなぁ~と思う。 サイエンスに関して、こうも面白い本や文章や考え方があちこちに見当たるようになったら、この日本も理系離れなんかは問題にならないんじゃないかなぁ~……なんて思うのだけれど。 ――ファインマンは、ファインマンダイアグラムっていう、QED(量子電磁力学)におけるxy座標系みたいな感じのものと書き方? を発案したってことでノーベル賞を――量子電磁力学の発展に寄与――って名目で受賞している(with 朝永振一郎、ジュリアン・シュウィンガー) 本人は 「ノーベル賞受賞の電話が夜中の2時にかかって来た」し、 「おもしろいことを一番初めに発見するっていう栄誉」と、 「僕が発見したことを他の研究者が使ってくれる」 っていうことだけで僕は十分報われているんだよ。 とのたまって、受賞を断ろうとした (断るほうが注目を集めるよ!!と注意されて結局は微妙に嫌々受賞するw) ファインマンの功績は、コレの他にチャレンジャー号爆発事故の原因究明なんかに代表される。(きっと他にも色々と専門的なところでは在るのだろうが) 俺が書きたいのは彼の功績とかではないので今回は割愛する φ ……ファインマンの面白おかしいエピソードについてはちょっと語り尽くせないので、文中で見つけたいくつかの言葉と、それに対する俺の解釈を載せて本文章を締めくくろうと思う。 φ “What Do You Care What Other People Think?” 『他人がどう思ったって構わないじゃない?』 これはファインマンの最初の妻のアーリーンよく言っていたセリフだそうで、彼女と死に別れてからのファインマンの座右の銘のなかで、最も大事な、彼の根幹を占めるものになったという。 我が身を振り返る時や思い悩んだときに、この言葉に見合う自分で居ることが出来ているか、鑑みたのだろうな、と俺は思う。 はじめにこの言葉に触れた時、俺は苦笑とともに、身勝手な言葉だなぁ~、なんて感想を抱いたものだけれど、よくよく読んでいくと、決してそんなことはないのだ。 この言葉は多分、言葉にしていないレベルで他人への気遣いを前提条件としている様に思う。 他人がどう思ったって、なんていう言葉は、傍若無人に自分勝手に振る舞ってしかるべき、ということを推奨しているわけでは決して無くて、むしろ他人への気遣いは前提として『絶対にするもの』なのだよね。 だから、この言葉は、元も子もない付け足し方をするのならば、 『(ちゃんと他人への気遣いを果たしたのならば、それ以上は)他人がどう思ったって構わないじゃない? (だから、ちゃんと自分で考えて決めたことを、最後までやるのよ?)』 というものなのではなかろうか。 shame(気恥ずかしさ)や、scum of the earth(周りの目)、に左右されやすいのが人の性で、それを感じるのは人として当然のことなのだよね。 でも、それを理由にやったほうがいいこと、やったほうがいいと思ったこと、やらないと未来に困ること、やらないと誰かが困ること。そういう事態に陥りかねないことをやらないのは、きっとよくないことで やらない後悔こそが狂おしいのだろうな、と。俺は思う。 φ 俺がガキの頃に氷上にもらった訓戒の中で、マジで元も子もない極論の最たるものとして、「なんでも出来ろ」 ってものがあるんだよね。 オレこれはじめに言われた時に、即答で「超無理」って答えたの、今でも覚えてるんだけど、この言葉の意味するところは、本当に「なんでも出来ろ」っていう異次元な推奨じゃなくて、 「ウチの家訓が『なんでも出来ろ』なんて、超無茶ぶりものだから、とりあえず出来るようになってやろうか」 っつー前向きな姿勢をもつことなんですよー、って悟されたんだよね。 アーリーンさんのこのセリフは、きっとそういう物事に対する取っ掛かりのハードルを下げるためのものなんじゃないかなぁ~って。 俺はそんな風に思うんだよ。 φ 『我々が今生きている世の中に責任を持つ必要はない』 これはジョン・フォン・ノイマンの言葉だそうな。 ――文中では、「積極的無責任さ」、とか、「社会的無責任感」、といった言葉が見受けられた。 まぁ、、ファインマンは原爆の開発に携わってるからこの言に救われた部分が大きいのだろうな、と思う。 しかし思うに、我々は物事の責任を誰かしらの一個人に押し付け過ぎなのではなかろうか、そういう傾向に有りはしまいか、と思うのだ。 社会的な部分での役割といったものは、個人による意思よりもむしろ状況の強制力がそうさせる、という部分が大きいんでねぇかなぁ、なんて、俺は思う。 東郷平八郎だってあんなタイミングで元帥になりたくはなかっただろうて…… ファインマンはこのセリフに出会ってから、社会的無責任感を信条としたらしい。 でも、ファインマンは誰よりも最高の物理学の授業を誰よりも楽しんで開講していたしそのための準備を惜しんだことはなかったし、生徒の面倒を喜んで見たらしい。 (しかし管理職にはならなかったそうなw 自由スキー) ...

2014年2月23日 · 1 分 · 116 文字 · Keito Fukushima