「他人がどう思ったって構わないじゃない?」
アーリーン=ファインマン

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卒論が終わりました。
卒論関係については3記事くらいに分けてがんばってまとめるとして、(使ったツールとか、時期ごとに何やってたかとか、反省とかをば)

今回はブログもなにもやってなかった空白の期間に考えたこととかをちょっと言葉にまとめておこうかと。

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(4月頃から)
研究室配属が終わって、希望通りの研究室に配属されて(授業もなく)わりと暇になった俺は、今更ながら物理学とかコンピュータの開発された系譜みたいなのを調べはじめた。

そんなときにふと引き当てたのがこの本
ファインマンさんは超天才

リチャード=ファインマンの名前は、学部一年生の頃に(超苦労して取った)力学の授業で使ってた教科書でチラッと見た(しかも超ひねくれた問題のひねくれた解説の参考図書として)くらいで、俺はよく知らなかったんだけれど、この本を読んで一発で彼の人格と思想の虜になった。

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タイトルこそ邦題では「超天才」なんてざっくばらんな訳になっているけれども(いや、大貫昌子さんの訳は全体的にファインマンのざっくばらんさ(率直さ?)のようなものをよく表していて、文句なく素晴らしいことをここに添えておく)
クリストファー=サイクスの原題では、「No Ordinary Genius(ちょっと普通じゃない感じの天才)」ってなってて、俺的にはファインマンはニュアンスとしてはこっちのほうが気に入るんじゃないかなぁ~なんて思わなくもなかったり。

本書の構成は、ファインマンのセリフや、ファインマンの周りの人物へのインタビューを折々に挟むことで、1つのタイトルや事柄について、まるでファインマンと(ファインマンに関わりの深い人達と)一緒に話しているかのように感じさせるものになっている。
個人的には、アメリカ的な非常におもしろいジャーナリズムの様相を呈しているなぁ~と思う。
サイエンスに関して、こうも面白い本や文章や考え方があちこちに見当たるようになったら、この日本も理系離れなんかは問題にならないんじゃないかなぁ~……なんて思うのだけれど。

――ファインマンは、ファインマンダイアグラムっていう、QED(量子電磁力学)におけるxy座標系みたいな感じのものと書き方? を発案したってことでノーベル賞を――量子電磁力学の発展に寄与――って名目で受賞している(with 朝永振一郎、ジュリアン・シュウィンガー)

本人は
「ノーベル賞受賞の電話が夜中の2時にかかって来た」し、
「おもしろいことを一番初めに発見するっていう栄誉」と、
「僕が発見したことを他の研究者が使ってくれる」
っていうことだけで僕は十分報われているんだよ。

とのたまって、受賞を断ろうとした
(断るほうが注目を集めるよ!!と注意されて結局は微妙に嫌々受賞するw)

ファインマンの功績は、コレの他にチャレンジャー号爆発事故の原因究明なんかに代表される。(きっと他にも色々と専門的なところでは在るのだろうが)
俺が書きたいのは彼の功績とかではないので今回は割愛する

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……ファインマンの面白おかしいエピソードについてはちょっと語り尽くせないので、文中で見つけたいくつかの言葉と、それに対する俺の解釈を載せて本文章を締めくくろうと思う。

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“What Do You Care What Other People Think?”

『他人がどう思ったって構わないじゃない?』

これはファインマンの最初の妻のアーリーンよく言っていたセリフだそうで、彼女と死に別れてからのファインマンの座右の銘のなかで、最も大事な、彼の根幹を占めるものになったという。
我が身を振り返る時や思い悩んだときに、この言葉に見合う自分で居ることが出来ているか、鑑みたのだろうな、と俺は思う。

はじめにこの言葉に触れた時、俺は苦笑とともに、身勝手な言葉だなぁ~、なんて感想を抱いたものだけれど、よくよく読んでいくと、決してそんなことはないのだ。

この言葉は多分、言葉にしていないレベルで他人への気遣いを前提条件としている様に思う。

他人がどう思ったって、なんていう言葉は、傍若無人に自分勝手に振る舞ってしかるべき、ということを推奨しているわけでは決して無くて、むしろ他人への気遣いは前提として『絶対にするもの』なのだよね。

だから、この言葉は、元も子もない付け足し方をするのならば、
『(ちゃんと他人への気遣いを果たしたのならば、それ以上は)他人がどう思ったって構わないじゃない?
(だから、ちゃんと自分で考えて決めたことを、最後までやるのよ?)』

というものなのではなかろうか。

shame(気恥ずかしさ)や、scum of the earth(周りの目)、に左右されやすいのが人の性で、それを感じるのは人として当然のことなのだよね。

でも、それを理由にやったほうがいいこと、やったほうがいいと思ったこと、やらないと未来に困ること、やらないと誰かが困ること。そういう事態に陥りかねないことをやらないのは、きっとよくないことで

やらない後悔こそが狂おしいのだろうな、と。俺は思う。

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俺がガキの頃に氷上にもらった訓戒の中で、マジで元も子もない極論の最たるものとして、「なんでも出来ろ」
ってものがあるんだよね。

オレこれはじめに言われた時に、即答で「超無理」って答えたの、今でも覚えてるんだけど、この言葉の意味するところは、本当に「なんでも出来ろ」っていう異次元な推奨じゃなくて、

「ウチの家訓が『なんでも出来ろ』なんて、超無茶ぶりものだから、とりあえず出来るようになってやろうか」

っつー前向きな姿勢をもつことなんですよー、って悟されたんだよね。

アーリーンさんのこのセリフは、きっとそういう物事に対する取っ掛かりのハードルを下げるためのものなんじゃないかなぁ~って。

俺はそんな風に思うんだよ。

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『我々が今生きている世の中に責任を持つ必要はない』

これはジョン・フォン・ノイマンの言葉だそうな。
――文中では、「積極的無責任さ」、とか、「社会的無責任感」、といった言葉が見受けられた。

まぁ、、ファインマンは原爆の開発に携わってるからこの言に救われた部分が大きいのだろうな、と思う。

しかし思うに、我々は物事の責任を誰かしらの一個人に押し付け過ぎなのではなかろうか、そういう傾向に有りはしまいか、と思うのだ。

社会的な部分での役割といったものは、個人による意思よりもむしろ状況の強制力がそうさせる、という部分が大きいんでねぇかなぁ、なんて、俺は思う。
東郷平八郎だってあんなタイミングで元帥になりたくはなかっただろうて……

ファインマンはこのセリフに出会ってから、社会的無責任感を信条としたらしい。

でも、ファインマンは誰よりも最高の物理学の授業を誰よりも楽しんで開講していたしそのための準備を惜しんだことはなかったし、生徒の面倒を喜んで見たらしい。
(しかし管理職にはならなかったそうなw 自由スキー)

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What Feynman hate worth than anything else was intellectual pretense – phoniness, false sophistication,jargon.

『ファインマンは何よりも知的なごまかしが嫌いでした。――いかさま、詭弁、意味不明な専門的な用語の数々』

これはファインマンについて調べている一環としてみつけた、レナード=サスキンドさんのCalTechでのTEDでの一節なのだけれど、

心について研究している専門家と話してるうちに、意味不明な分類についての専門用語ばかりが会話の大半を占めて頭がおかしくなりそうだった。

そんな中、心についてのメジャーな話題の一つとして機械は心を持つのか(Can A Machine Become a mind?)という話題に至ったときに、哲学者の連中は困ったことに、科学的に考えなくてはいけないところを、哲学的に考える。

こいつは高度に科学サイドの問題(science-iphizing question)で、哲学サイドでいくら難しい専門用語を重ねたところでなにか新しい発見が出来るわけではない。

なのに彼らは駄々難しいだけの専門用語を重ねてなにかを考えた気になって我々は議論の内容すらわからない

ファインマンの前でこういうことをするのは非常に危険なことだ(笑)

(以下略)

オレが文系に行かなかった理由は、(心理学が好きでありながら、どこか現代の心理学に限界を感じずには居られなかった部分は)こういうところにあるのだと思う。

式をいくら変形(左右入れ替えや掛け算割り算の交代を)してみたところで、新しい何かを発見したことにはならない。

ファインマンの理念の、シンプルでありながら深奥に至るという性質が、今の心理学には欠けているように思うのだよね。それはサイエンスでは、決してないのだ。

ファインマンと話していると、まるで自分の頭が良くなったように感じられて、ファインマンと一緒ならばどんな問題だって解き明かすことが出来るような気分になったそうな。

――そういう話し方は、どうすれば身につくのだろうか。
体得したいものだなぁ

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ちょっと文章が長くなってしまった。今回は一度ここらで筆を置くとしよう。