すればするほど欲しくなる

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昔、物欲も三欲に入らないことが不思議だった。
今では、まぁ、理由はなんとなくわかる気がする。
欲に限らず、捨てれば捨てるほど逆に生きやすくなるのかもしれない。

シンプルさにかこつけて記述するけれど、
デザインが金になることを体感したのは、iPhoneを持ってからだった。……、ああ、これは、金になるわ、と。
機能性と簡易さと……いろんなものが入ってるのに、それはそれは簡単な形をしている。

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年々、欲しいもののクオリティが上がるのだけれど(家とか土地とか嫁さんとか)、満足のグレードは段々と下がってゆく感じがする。(これも悟りの一種か)
我慢を覚えている訳では無いと思うが。……この感覚はうまく言葉にできないなぁ、世界が広がった、のかもしれないなぁ(これもこれで抽象的極まりない言葉だ)
世の中には自分よりも不幸な人がいっぱい居て、それと同時に自分よりも幸福な人もやや沢山いる。(あまり差別的な表現は好きではないが、日本という土地に生まれた時点である程度のイージーモードは保証されることを知ったというか)
野菜が美味しく感じるようになって、やりたいことと知りたいことは増える一方。同時に金と名誉が欲しくなって、その両方が圧倒的に足りないことを不服に感じる。
経済の基本は欠乏だろう。足りない。足りない。だから欲しい。用意するのは対価。お金。
金銭感覚は未だに正しく身についている気はしない。
(この場合の正しさっつーのは、いわばこれだけ使えばこれだけ残ってて……、という肌感覚だね。どうも整理整頓が肝要な気がする。今の俺には、どうも物が多過ぎる嫌いがあるにゃー)
俺の価値基準の基本は、相変わらず氷上の姫さんだ。

「物質的なものに未練を抱いてはいけませんよ」

というのが例によってあまりに深すぎる彼女の言だが俺はまだここまで至れてはいまい。(いや、感覚としては分かるのだ。彼女は俺の精魂込めたノートを一冊残らず笑顔で焼き払った)
物質的なものに未練を抱かない、というのは、ある種諦念の様なものを感じる。
その考えは美しいのだけれど、どうも難しい(というか、“色々あって最終的に至るところ"のような気がする。ーー洗練の前には必ず浪費があるように。
口惜しいことこの上ないが、師匠はこいつを体現していたように思う。憧れるが腹が立つ。なんだあれ。
最近読んだ新書に「Amazonを、“金を払えばいつでも保管してある荷物を引き出せる巨大倉庫と考えたらどうだろうか”、」という割とアレな極論がまことしやかに書いてあって、ちょっと笑った。いや、極論だけれどいい考えだと思う。

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今の俺の金銭感覚は等身大のものより大きいものな気がする。……それが俺の器の大きさを潜在的に示しているものであれば良いのだけれど。
価値のあるものにはキチンとした対価が要る。
対価が用意できないのならば、それは身の程を弁えて居ない醜悪なものであろう。
一方で欲を持たないのも俺にはどうも歪なものに思える。
要はこれもまたバランスだろう。
俺の大事な義妹が昔どっかで宣言してたのを思い出した。

「いっぱい稼ぐ!!」

金のある人のところに金が集まるのはまだいい。努力だろう。しかし、労働やモノの対価ではない、金と金の渡し舟でどうかして上手く稼ぐ人間が最も金を多く持つという、世相には資本主義のどうかした矛盾のようなものを感じる。……、そんなのは頭脳労働とは決して言えないし(だってサイエンスのように新しいものを彼らは決してその(逆説的に消費とも言える)行為から生み出さない)
リスクを負えばいいという話でもあるまい……、まぁ、よくわからないことに口を出すべきではないか。

師匠は昔、「どんな時でも、金はあるところには有るんだ。……だから何処に何があるか正しく見極めて、そいつからそいつに損と自覚させないようにぶんどる。手段はなんでもいいさ、“損をさせない限り"な。損をさせる時は殺して殺される覚悟を決める時だけだな。これも等しく戦争だ」
なんて渡世人極まりないセリフを狂言回していたけれど、一部においては事実に思える。ーー極論だが。

また長くなってしまった。……結論は、そうだな。
職業に貴賤はないし、金の有る無しでその人の価値は測れない。
しかし、どんな形であれ、極端な支援を受けず、労働し、家計を支えて自活していけるのならば、その人とその人の金銭感覚は尊敬に値する様に思う。 ……、少なくとも、学生の身分で、安定収入がなく、金も地位も名誉も持ち合わせない今の俺は、そう思う。

追筆;

子供の教育費

俺は一人っ子だから、俺の母親は俺に二人分は使った、と豪語している。
まぁ全てが有意に実ったとは俺は口が裂けても言わないが、俺はそれだけの心血を俺に注いでくれ続けたことには、両親に対して尊敬と感謝の念を禁じえない。
しかしまぁ、(受けた側の)俺からしたら、それなりに不満は有るし、必要だったのかなー、と空々しく思うことも少なくなかったりもする。

家庭教師をしたのだ。塾講師として関わった生徒たちのことを感情に入れると、10人以上の生徒に関わった。(こんなはずではなかった。10人は、俺にとっては多いよ)
これは俺の中で、「成長期の教育」っつージャンルで割と興味のあることで、延長線上(大元)には「俺に対する教育ってあんなにひつようだったのかよぅ?」っていう疑問があったりもする。
中高大と、俺の友人にはそれなり以上に優秀な人間が居て、俺はそいつらから俺なりに習慣や思想のようなものをパクりまくっていい感じに成長したと自負しているけれど、なんというか、そういう(1を聞いて10を知る、とまでは言わないけれど、5.6位までならば思い至る、と言ったような)“カン"が、よくない生徒は、あまり成績も振るわない気がする。
何事にも成功しやすい人間っつーのは、きっと習慣から作られてると俺は当たりをつけて、ユダヤ人の思想とか、古人の名著とかを読んでみたけれど、一番小難しくしっくりくるのは五輪書だった(話が逸れたな。この話は改めて。)
結局は熟練度というのは繰り返しに終始するが、その繰り返しがどういうところから来てどういう処へ向かうのか(つまり、何をすればどういう結果になるのか)、とか、
朧げながらにでも目的のようなものが想像できる子はそれなりに成長したように思う。(後は逆に盲目に淡々と熟せる人間も)
俺の動機が俺にはまだ分からない(ままここまで来てしまったのはちょっと謎なんだが) それが今の延長にあると良いのだけれど。

俺にはまだ分からない。