小林一三
事業を成功させるにはプロデューサーが「いざとなれば何でもできる」多彩さと気迫と人脈を持つ必要がある。
私も万国博覧会や沖縄観光開発などを担当してそれを痛感した。
政治は経済ほどに信用されない。
政治力で補助金や寄付金を集めても長期的な信用を得られない。
だからこれに生涯をかける人材が集まらない。
それに比べて大衆に人気があり経済的に
報われる業種には、スター志願の若者がワッと集まる。
小林の始めた宝塚は後者だった。
反対者も抵抗者も所詮はより良いものを作りたいのだから、事業が進んでいれば必ず戻ってくる。
本当に困るのはより良いものを作る意欲と感覚のない傍観者なのだ。
小林市三の周辺にも安全や品格を口実に何もしない経営者が何人も登場する。
小林は、そんな人物だけは口をきわめて非難している。
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松永安左エ門
松永安左エ門の95年余の生涯できわだっているのは自らの事業の節目、(経営難や競争での敗北など)ごとに俗世間から引き下がって寓居での隠遁生活を送り、その間に読書や茶道などに没頭して知的肉体的エネルギーを蓄積し、次の活躍の場に打って出たことである。
いうならば生まれ変わりをたびたび行っている。
映画でイノベーションのことをボーンアゲインと言い換えることがあるが、松永は明治、大正、昭和と続く日本資本主義のイノベーションの波に合わせるかのように自己革新の節目を作っている
これはアントレプレナーの歴史として注目すべきことである
まずその紹介の節目に至るまでの若き永松の軌跡をたどってみたい。
その季節に彼の事業経営の原点があるからである。
松永安左エ門はその生涯の節目において時代の本質を洞察する鋭い力を示し、かつそれを現実の成果として実らせてきた。
この洞察力の源泉はどこにあったのか。
彼の伝記などからうかがえる奔放な印象とは異なり、それは意外にも「研究」にあったのではないか。
そうはいっても普通の学者研究者が為すような研究ではなく、時代を見抜くための研究である。
その素質は若い頃からあったようで、ライバルでもあった福沢桃介にこういわせている。
「研究にかけては俺も人後に落ちるぬつもりだが、松永の徹底した研究ぶりには兜を脱ぐ」
学者まかせの研究提言ではなく、自ら委員会で鋭い発言をし、虫眼鏡で資料食い入るように見る研究の鬼 であった。
既存体制に不均衡がある時こそシュンペーターの言う「創造的破壊」が必要だ。
しかし背後には新しい事業機会を見抜く創造的知識が必要になる。
松永は、そうした「知」を研ぎ澄まして創造的破壊を実践した稀代の実業家であった。