子規庵④(坂の上の雲 2 p322~) 勇気
「あしは侍の家の子に生まれたくせに臆病で」
「銃が恐ろしかった。鉄砲の音も大きらいじゃ。しかし人間というのは複雑ぞな、例えば生死の覚悟となれば軍人などには負けんぞな」
「升サンには勇気がある」
「勇気かな、勇気よりももっと底の底の大勇猛心というようなものが毎日のあしを動かしているように思えるのじゃが」
「悟りということか」
「禅坊主の悟りは、あしにはわからん。念仏坊主の欣求浄土ということもあしには無縁のものじゃ。あしは宗教には無関心じゃが、好きな宗祖はたれぞときかれれば、そりゃ日蓮ぞなやと答えている。日蓮のあのかっかとのぼせているところが、あしは好きぞな。あしは、あと何百日生きるか知らぬが、生きられるだけやらねばならぬことをやる。悟りをひらいたり念仏をとなえたりしているひまはない」
真之
真之は、滞米中から思い続けてきたことを、子規に話した。
「どうせ、あしの思うことは海軍のことじゃが。それと思い合わせながらいま升サンの書きものをよんでいて、きもにこたえるものがあった。升サンは、俳句と短歌というものの既成概念をひっくりかえそうとしている。あしも、それを考えている」
「海軍をひっくり」
「いや、概念をじゃな。たとえば軍艦というものは、いちど遠洋航海に出て帰ってくると、船艇にかきがらがいっぱいくっついて船あしがうんとおちる。人間もおなじで、経験は必要じゃが、経験によってふえる智恵とおなじ分量だけのかきがらが頭につく。智恵だけ採ってかきがらを捨てるということは人間にとって大切なことじゃが、老人になればなるほどこれができぬ」
(なにを言い出すのか)
と、子規は見当がつかぬままに、嬉しそうに聴いている。
「人間だけではない。国も古びる。かきがらだらけになる。日本の海軍は列強の海軍にくらべると、お話しにならぬほどに若いが、それでも建設されて三十年であり、その間、近代戦を一度経験し、その大経験のおかげで智恵もついたが、しかしかきがらもついた」
「そげなものか」
「山本権兵衛という海軍省の大番頭は、かきがらというものを知っている。日清戦争をはじめるにあたって、戊辰以来の元勲的な海軍幹部のほとんどを首切ってしまった。この大整理はかきがら落としじゃ。正規の海軍兵学校出の士官をそろえて黄海へ押し出した。おかげで日本海軍の船あしは機敏で、かきがらだらけの清国艦隊をどんどん沈めた」
「なるほど」
「かきがらは人事だけではない。あしは作戦屋で軍政には興味をもたぬけん、人事のことは言わぬ。あしの言いたいのは、作戦じゃ。作戦のもとになる海軍軍人のあたまじゃ」
「古いのか」
「古今集ほど古くなくても、すぐふるくなる。もう海軍とはこう、艦隊とはこう、作戦とはこう、という固定概念≪かきがら≫がついている。おそろしいのは固定概念そのものではなく、固定概念がついていることも知らず平気で司令室や艦長室のやわらかいイスにどっかとすわりこんでいることじゃ」
固定観念と素人
真之はアメリカ海軍の話をした。
「アメリカ海軍は、素人じゃと思うた」
「日本のほうが玄人か」
「世界一の玄人であるイギリス海軍に学んだため、当然ながら玄人じゃ。あしの玄人の目でアメリカ海軍を見ると、やることなすことがじつに素人くさい。しかし、おそろしさはその素人ということじゃ」
素人というのは智恵が浅いかわりに、固定概念がないから、必要で合理的だと思うことはどしどし採用して実行する。ある意味ではスペイン海軍のほうが玄人であったが、その玄人がカリブ海で素人のために沈められてしまった、と真之はいう。
兵棋演習
オモチャの兵棋をつかって演習するなどいかにもアメリカ流の、いわば素人の思いつきくさいが、古今、物事を革新する者は多くはその道の素人である。
兵棋演習の利点を海軍省軍令部へこれを採用すべきである。と真之は人間論から説いた。
「平素、きわめて智恵に富み、しかも豪勇といわれている人でも、いざ戦陣にのぞみ重責の職についたため、責任の重さから心が昏み、気がまどい、せっかくのその資質を発揮できぬという実例が多い。われわれ軍人のほとんどはナポレオンやネルソンではなく、平凡人にすぎない。平凡人であるがために責任の重さにうちひしがれるという大弱点をもつ」
だから兵棋演習がいいという。
兵棋をうごかすにあたって、重責を帯びてそれぞれが艦隊司令官、参謀長、艦長のつもりになって真剣に運用し、それをくりかえし鍛錬することによって、いかなるときでも自信と沈着さを失わぬという第二の天性をつくりだすことができる、というのである。
「さらには、意識をつねに新鮮にしておくことができる」
ともいう。動かしている兵棋は、その軍艦がもっている性能によって動く。敵よりも劣性の西毛をもつ場合は運用によってカヴァーすべきであるが、結局は負けることが多い。このためつねに性能のすぐれた機械力をもって相手を圧倒せねばならぬというあたまもできてくる。
このあたまがあるかぎり、あたらしいものをとりいれてゆくという積極的な精神がおこる。兵棋演習はそのような意味でも重要である、という。
真之のこの提案は、さっそく海軍当局によって採用された。日本海軍はこういうあたりはまだまだ固陋ではない。