白鑞金(はくろうきん)とは白鑞(ろうそく)状の柔らかい金属の意味。錫(すず)と鉛(なまり)からなる合金(はんだ)で、主に金属と金属を接合する道具(接着剤)として使用される金属。*仕事の役割は重要だが、金属自体の価値はない。*従って、決して高価な金属ではないが重要な仕事をする金属であることから、一般的には「白鑞の如きしぶい仕事をする人」の意である。 確かにこの生命の者は自分に厳しい仕事人で、何ごともひた向きに取り組む研究家であり情熱家である。釵釧金の生命のような決して偉い人間(自尊心が強く高振る人)ではないが、燻銀(いぶしぎん)の如きしぶい職人技を見せる地味な専門家である。野口英世や伊丹十三(辛巳)あるいは小沢征爾や篠山紀信(庚辰)と言えば、その玄人(くろうと)受けする職人振りと地味な人象がお分かり頂けるものと思われる。彼等はまさに白鑞の如き仕事人と言えよう。 釵釧金の生命とは異なり、白鑞金の生命が誉め讃えられる理由はその人格にある。彼等は真の専門家であり教育者であって、世に貢献したいという純粋な動機の持ち主である所が高く評価される。同じ金性(辛と庚)の生命でも地支と生命因縁が1 8 0 °異なると、人格が正反対となって現れる。 辛巳は巳の法身期の生命であり、律儀で果敢な情熱家が法身として現れる生命で、自己の存在価値を社会に見出し、その意義を仕事に見出す人間である。また庚辰は辰の老年期の生命であり、*優れた感性と情感を備える青年が老巧な老人として現れる生命で、自己の生涯をかけても見事な作品を創作し、後世の人間に残してやりたいと願う仕事人である。*いずれの生命も老齢であり、自分のできることで世に貢献したいのであって、子供っぽい目先の欲望に囚われてはいない。 この様に分析して見ると、 6 0干支の生命因縁人格の構成に大きな影響力を持つことが良く分かる。庚戌が応身であっても寅(少年)で現れるのなら、結局寅に過ぎなく寅の人格を越えることは難しい。田中角栄(釵釧金・辛亥)も振る舞いだけは報身でも、結局少年の総理大臣に過ぎなかった。魂胆や動機が不純でも、立派な業績や優れた創作品はできるものだが、人間を知ってしまえば残念ながらその価値は半減してしまうものである。 白鑞金と対沖する納音は釵釧金(辛亥・庚戌)。**白鑞金の生命は分をわきまえ強欲を慎み適量を知るが、釵釧金の生命は限度を知らない。****前者は決して高慢にはならず自分が特別な人間だとは思ってはないが、後者は自分は偉い人間で人の上に立って当たり前、人より優秀で当たり前の人間である。また前者が厚い同情心や深い人情を備えた人間であるのに対して、後者は有名な人格破綻者(人間失格者)である。**良い創作品を作るためには全てを犠牲する釵釧金と、まず人間の完成を目指す白鑞金とでは子供と大人の違いがある。