思考としての最短経路
答えのない領域で、それでも何らかの「まとまり」と「説得力」というのは常に必要なのだろう。 自分にとって肌感のない領域で、そういう「まとまり」や、「説得力」のある仮説みたいなのを提示することは、とても苦手に感じているんだけれど、 きっとこれも小さなノウハウの集合体で、時と場所と場合によるコツを盗みながらできるようになる類のものなのだろう。 使えるものを使い、いろいろいい感じのものを探しながら、パクっていくことにする。
答えのない領域で、それでも何らかの「まとまり」と「説得力」というのは常に必要なのだろう。 自分にとって肌感のない領域で、そういう「まとまり」や、「説得力」のある仮説みたいなのを提示することは、とても苦手に感じているんだけれど、 きっとこれも小さなノウハウの集合体で、時と場所と場合によるコツを盗みながらできるようになる類のものなのだろう。 使えるものを使い、いろいろいい感じのものを探しながら、パクっていくことにする。
それはきっと、考える経路。 こうだと思う、なぜならば。
報告以外はあまり意味がない、みたいな空間に居た期間が長かったのか、 相談のやり方が、分からない自分が居る。 でも多分、簡単な話なんだと思う。 知らない感じ、分からない感じのことは、ざっと調べた上で詳しい人に認識があっているかを都度共有、みたいなことをする行為なのかもしれない。 分からない。いろいろ試してみないと。 φ 積極的に管理下に入るというか、 チームで動くということは、チームの共通認識に積極的に入る、 みたいなことなのだろうと漠然と思う。 自分だけで情報を持たない、みたいなことなんだろう。 ……うーん、管理下に置けない時の共通認識の作り方、とか、そんな話なんだと思う。そしてこれもきっと極意とかではなく、ノウハウの話なのだろう。 ダメだ、まとまりきらないけれど、一度リリース。
「絵を書く能力と、話を作る能力ってのは、漫画家の世界だと混同されがちなんだけど、まぁ話を作る能力の方が儲かるね」 φ 問いを探す能力と、問題を探す能力は使う回路がきっと違う。 だから、問いを探す能力はそれはそれで意識して訓練しないといけないんだろうな。 問いを探し、問題の本質を考えるという行為を、ベストプラクティスや過去の事例を探すということを言い訳にサボることがあってはならない。それは意識的に行わなければならない。 これはティールの「みんなは信じているけれど、実際は違って、本当の姿はこうである。というのは、君にとっては何?」という問いかけに似ている。 φ 言葉にすることで、自分にとって、の価値観を決めてしまうことを厭わしく思っていたが、そろそろ追いつかなくなってきた。 いろんなことを、まとまらないながらも言葉にしまくらなければ。これ以上抱え込めないやね! ハヤタの言であれば「何からでも学ぶので、先ずは突っ込んでみろよ」みたいな話なんだと思う。 死に覚えに慣れる考え方は、ファインマンのこれだろう。 「ファインマンは、問題の解を探す時に、(あなたがそれを言うか!?)と驚かれるような、バカバカしい案を大真面目に出すんだ」
pyautoguiをコマンドプロンプト上で、pip install pyautoguiでインストールしようとして、延々と下記のエラーで怒られ続けた。 UnicodeDecodeError: ‘utf-8’ codec can’t decode byte 0x83 in position 81: invalid start byte 開発力が低いので、何のエラーなのかイマイチわからない。 Windows10からユーザー名が漢字になったからかな? とか思ったのだけれど、真因はわからない。 コマンドプロンプト上で、chcp とか、chcp 65001 とかを実行しても全く動かず。 色々試した結果、 1.再起動 2.PowerShellを管理者権限で実行 3.pip install pyautogui で動いた。 再起動したのは、エラーの中に、「ファイルは使用中だよ!」 みたいなエラーが記述されていたため。 なお、上記管理者権限でPowerShellを実行すると PS C:\WINDOWS\system32> となる。凄い。この環境で pip install numpy pip install scipy pip install cx_Freeze を叩くと、特に何のエラーもなくインストール出来た。 なお、環境は python 3.6.3 (64bit) Windows 10 Pro (64bt)
≪自分用のメモ≫ python pyautogui 関連 # pyautogui import time import pyautogui as pg import os #バッチファイルと同様の記述をpythonで実行 os.system(‘start "" “[URL Link]”’) #シングルクオートとダブルクオート time.sleep(2) pg.press("[KEY Name]") pg.hotkey("[KEY1]","[KEY2]") pg.typewrite("[TYPE STRINGS]") google検索.bat 「環境変数に入れたフォルダで、g と名前をつけたショートカットを用意すると、Win + R g 検索ワードで検索が可能に」 @echo off start iexplore “http://www.google.co.jp/search?h1=ja&q=%*” OneNote起動 start onenote Outlookをカレンダーで起動 start outlook /select outlook:calender 付箋を起動 start %windir%¥system32¥StickyNot.exe 結局一番使うのはGoogle検索だったりする。 余談だけれど、上記バッチファイルやPythonのコードにMousgestureL.ahk と Auto Hot Keyを組み合わせると、自分でプログラムしたコードをマウスジェスチャーに登録することが出来る。
作者名を知らなくても、絵を見ればわかる 「007シリーズ」「ティファニーで朝食を」 「絵を描くことには常習性がある。 すぐ時間がなくなり、ろくに満足もできないというのに、頭にはいつもうまく行く瞬間のことばかりがある。 だが、おそらくその瞬間は永遠に来ない。にもかかわらず、絵を描くというのは良き友人であり、自分は幸運にもその魔法にかかって幸せな気持ちでいる。 絵を描きたいという欲望は日増しに強まっている。やりたいことはたくさんあって、時としてなかなかどれと決めがたい。どれから、なにから手を付けよう。どれにも気持ちが高ぶる。周りには美しいものが色々あるからだ。どれもこれも描きたくて、まったく窮してしまう」 「絵を描くとは、素晴らしいことだ。描く者は、やめようなどとは考えない。形あるものを作っている、しかもそれが自分のものであるからだ。そこにこそ満足がある。 絵を描き終わったとき、そのようなものは世界にひとつしかないのだと、自分にはわかる。善かれ悪かれ、それが自分の作品だからだ。自分が作ったのだ。」 あまりにえろい美女たち。 一枚の絵に宿るストーリーはどこまでも想像を掻き立てる。 正解のない世界で、これが正解だ!と提示される感覚。 ともすれば実物のモデルより美しい。
最近芸風を模索してるのだけれど、 自分の手のひらを見ながら、 『どんな風な感じで人に接したいかなぁ〜』 と考えた時に、 「安心感的なものを与えられる人種でありたいなぁ……」としみじみと思った。 「アナタはそのままでいいんですよ。」 と言ってあげられる感じがいい。 オレは、そうなりたい。 ……それだけで救われることは、とても多い。 ひとりで色んなことをやることに、最近限界を感じつつある。 今の自分が割と尖っている印象があって、(これは若いうちだから許されるもので)最近、「なんかそろそろ違うフォルムになりたい」と思うようになって来た。 このまま尖っていても、要らん軋轢を引き寄せるなぁ……と。(そんなのは望むべくもない) 苛烈さは自分に求めるものであって、他人に求めるものでは無い。無意識にあってでも、意識的にであってでも。 そういうことは、きっととてもよくない循環を招く。 精神的にも、そろそろ次のステップに移る時だと感じていて、じゃあどうなりたいですか? と問われた時に、 「意外と自分、何も出来ないから、 相手の話を聞いて、 相手のことを見て、 浅く笑って微笑んで。 『それで いいんだ』 と肯定してあげられる人間で在りたい」 そう思う。 そういう安心感。 今の相手を踏まえた上で、それを一旦「これでいいのだ」と受け止め切る感覚。 一旦受け止め切る。その上で、それを尊重して対話をはじめる。 これは幼い頃の憧憬として、「あなたはそのままでいいんですよ」と受け入れてもらった自分が居て。 その言葉ひとつに、心の底から救われた気がして、その言葉を支えにがんばり続けることが出来た自分が居たからで、 今でもずっと、「ああいう風に、つらい感情を抱えている人に、心を解きほぐすようなことを言ってあげられる人間になりたい」と思い続けている自分が居るのだ。……そういうところを起点にした考えだ。 あの言葉があったから、俺は頑張って来れたのだと思う。後ろがどうであれ、始点はそこなのだ。 そこを一回、踏んでいるのだ。 自分の考えを話すにしても何にしても、相手の歯車のカタチを知ることが不可欠で、 相手の歯車に、自分の歯車を合わせに行く感覚がたまらなく大事だと、思うようになった。 これはよくある一般論では無くて、『防御はセンスでなんとかなるけれど、攻めは努力して素振りを続けた上で体得するしか無い』という言葉の肌感覚に近い。だから、尖って居た期間があるのと無いのとでは深みが変わる話だと思っていて、 つまり最初から相手に合わせに行ったところで、こちらに対処するだけのスキルが無い状態であれば、受け止めることは出来ないと思う。 先の先を取る練習をした上でしか、後の先を取る技を練習してはいけない感覚。 フォルムを変えようと思った起点としては、「部下が出来たとして」 ということを考えたときに、 「今の俺は、部下を持つに足る器ではないなぁ」 と思ったところにある。 新入社員だから許されてきた領域から、一歩踏み出しはじめているのだろう。 この辺りの感覚について、考えはじめたのは、暗殺教室だと思う。 「目の前の人をちゃんと見て」 「対等な人間として尊敬し」 「一部分の弱さだけで人を判断しない」 「…私は彼女から、そういう教師の基礎を学びました」 「ただ真っ直ぐこちらを向いて」 「今日も彼女は平和に笑う」 「そうか、『見る』というのはこういうことか」 「誰にも正体を見せなかった私は、『見られる』事が嬉しい事だと初めて知った」 この感覚が、自分の中にまだ無いな、と思ったことが始点だったのだと思う。
座禅は組み終わったので、言語化しよう 最近の行動が、正しく自分らしいのだろうか、という照らし合わせ。 近況 近況を一言で言い表すと、なんという言葉になるだろう? 『自己矛盾の解消のための足掻き』だろうか。 「このまま進むと向こう5年、自分の性質に合わない感じの仕事を続けることになる」 という見立てが立ったまま、「かといって転職もなー」と、 ぬるま湯でダラダラしていたのだが、ふと思い立ってぬるま湯の底を覗き込んでみたら、悪意がドロドロと渦巻いていて、挙げ句こちらを見て指をさして厭らしい顔で笑っていた。 それまでは「顔の見えない有象無象に負けた」 というなんとも言えない感覚だったが、 「顔の見えない有象無象の悪意に負けた」 というクソくらえな状況であることに気がついて、超足掻いた。 こんなところだろう (上記まで、7/30時点の文。以下10/21後記) これ以上は言葉にならず、ある種の判断保留を重ね続けた。結果、一番「あらまほしき」と、望んだところに落ち着くので、何を言われようが正答だと胸を張れる。 いやしかし、選択肢を切り捨てることは、どうも未熟らしい。然もありなん。 訓練がいるなぁ……(大変だ これは生きるスタイルの話だから。 行動原理 世の中に対する遠大なトリック・オア・トリートと言祝いで、遊んでいたけれど、傍目には目的から遠いところで回っているのかもしれない。 最近指摘されて、考えた。 それは初めは会社の都合だったけれど、1年も続けられる言い訳では無いな、と。 友人に、「ポーって、『嫌です』ってあんまり言わないよね」と指摘されて、ああなるほどなるほど、良くねぇな、と思ったんだ。 「世の中に」という尺度が、言葉の割に、俺が想像出来ている領域として、狭いのか。 周りの好きな人がどう思うか?という枠組みから外れていないんだな。多分、『芸を見て欲しいだけの浅はかな犬』から、マインドのところでは脱却していない。 それは世の諸般を有象無象と切り捨てているうちは、遠いのかもしれない。(だとしても急にギアチェンジできる気はしないのだが 傍目に遠いところで遊んでいるように見えるのは、 「世の中に対して何かを投げかける、ということを俺がまだ経験していないからだろう」と考えていたけれど、「準備が整っていないことを言い訳に、何も行動を起こさないのはただの阿呆」と吹聴しているので、これはただの言い訳だと気がついた。(遅い) 「目的と定めた所へ、脇見をせずに向かう」という姿勢は、生きる理由のスコープをどの領域にまで設定するか、ということからドロップされる意識なのかもしれない。 だとしたら、まだまだ先がある。先の考えがある。 もっともーっと上の領域がある。 (でも、俺はそこで遊びたいのかと問いかけると、んー、と浅く笑ってしまう) 意識の階層が合わないのかもしれない。 足りないことだらけだ。 でも、及ばない対象、今のままでは敵わないと思うことの出来る対象が、身近に居てくれることは、この上ない幸せだね。 あんまり、それ以上を求めていないのかも知れないなぁ!
嫌いという言葉を、あまり使わないようにしているな、と最近感じた。 ……思っても、口に出さないようにしている。 多分、心の奥底では「コイツ嫌いだわ〜」と思っている相手に対して、ニコニコ笑って話を聞く時間が、1日の大半を過ごす会社で、多いのだ。 ウヘァ…… なぜだろう? と考えた時に、「ああ、ここには保身があるな」と思い至った。 「嫌わないから、嫌わないでね?」 「ここで思っていることを態度に表すと、後に長引く面倒に繋がる」 「だから、正直目の前の人の話が心の底からどうでもいいし、1秒でも早くその口を開くことをやめて欲しいんだけど、ニコニコ笑って聞く」 みたいな時間がとても長い。 相手の方が、能力に関係なく、無条件で上に位置する。疑問の余地無く。その辺がとても煩わしい。 思うに、「嫌い」と本人の前で口を出せるのは、 ・その人よりも自分の精神的立ち位置を高く見積もった上で、 ・そいつに嫌われても特に面倒は生じない という条件を確保した上でのことなのだろう。 自戒だけれど、偉くなったとして、自分の部下に対して『嫌い』と言い放つことは人生で絶対にしないようにしよう。 あまりそのイメージも湧かないが。とても馬鹿な行いだと思う。 追記; そもそもそんなに人間を嫌う性質だっただろうか? と自問した時、「いや、そうでもねぇな」と思った。 では何がストレスなんだろう? と考えを重ねたら、 「好きではない人と必要以上に距離が近い」ことなのだろう。 そういう環境に、今オレは居るということなのだろう。 なにが言いたいのかよく分からない文章になってしまった。まぁいいや。 思想とは、残すことに、意味がある。