「しあわせだ今オレという主張はしない方がイイ」

蛭子能収さんも昔似たようなことを言っていた。 蛭子能収「幸せな姿は他人に見せない方が良い」 http://blog.livedoor.jp/ogenre/archives/1774228.html 「ようするに、幸せな家庭というのを人に見せたくないんですよ」 「みんな家庭が仲良くしたりするじゃないですか」 「必ず不幸な人があっちこっちにいて、そういう家庭を見たら絶対恨んでるはずなんですよ」 「子供を可愛がったり、いい洋服を着せたり、それを傍からジーっと見てる人がいるんです」 舞さんの言葉を借りるなら、 「人間なら誰しも、あらゆる要素を持ち合わせているのですよ。」 「幸せというのは、祝福と嫉妬を呼び起こすものなんです。そして、他人の幸せを受け止めて祝福してくれる友人なんてのは、そうそう居ないものですよ。」 「人のことを祝福できるようになるには、まずは自分のことをちゃんと出来て、整っている状態でないと。……どうしても、イイナァ、とか、アノヤロウ、みたいな感情は生まれるものでしょうよ。そういう感情はきれいなものではないですけれど、だからといって否定していいものでもないんです」 「そして私は、『イイナァ、とか、アノヤロウ、』っていう感情を抱いて居る、そんな状況にある人相手に、無神経に自分の幸せを自慢するような様**≪さま≫は、とても醜いもの**だと思います。」 「けーとくん、呪いってのは、本当にあるんですよ。遠回りに人の不幸を呼び起こすような誰かしらかの思想は、遠く隔てられていても届きうるものなのですよ。……まぁ、穴2つ、ですが。」 「だから、自分が幸せだってことは、受け止められる相手を本当に選んで話さなくては。」 「奪われますよ」 ……、舞さんは本当にジャパニーズサイコホラーの語り部みたいな話し方をするw

2015年7月11日 · 1 分 · 16 文字 · Keito Fukushima

最近考えていたこと

最近ウルトラ意識低かった反動 + 家庭教師中あまりに手持ち無沙汰だったので頭を回してた からなのか分からないけれど、ちょっと最近考えてた、わりと観念的なことがまとまったので言語化しよう 「しあわせだ今オレという主張はしない方がイイ」 「思想より行動の方が強い」 「二番煎じの方が出来がいい」 「時間軸をして考えれば個は無くなる」 「思想のコピーというか継承というかその辺」 それぞれがクドいくらい長くなったので分割することにした。 ハイパーリンクで。

2015年7月11日 · 1 分 · 11 文字 · Keito Fukushima

感情の終着点は、おそらく感謝や祈り

これは実感として漠然と持ち合わせている感覚。 そしてとても大事な感覚だと思う。 奥義だ奥義。 逆境も何もかも、俺に関わった全てに感謝の念を、こぼれ出るように抱けるようになれば、 俺はそれは日下部麻子のいう「あたしはやっと、死ぬことを許されたんだ」 という境地に至ることができるのではないか、と思うんだ。 色んな感情がある。 昔、ガキだった俺は生意気に、 「そうだねぇ舞さん、俺は死ぬのならば、どうせならば、この世界で味わい得る感情を、全部得てから死にたいなぁと思うよ」 とのたまった。だからこそ俺は物語が好きになった。いや逆かもしれない。物語が好きだから、感情の輝きに魅せられたのかも知れない。 本当に今思い返しても生意気なセリフ極まりないと思うけれど、俺はこれ今でも本心だな φ ああ、色んな感情の終着点は、やっぱり感謝と祈りなんじゃあねぇかな、 そこに辿りつけなかったら、俺は未熟だったのかな、と思う。 ヤン・ウェンリーの最後も、「ごめん」か「ありがとう」だっただろう、と。ああ、やっぱ綺麗なんだよ、この感情。 あらゆる全部の感情の終着点。 好きな人が自分のものにならなかったとしても、 たとえ自分のものにならないのなら、いっそ殺してしまおうか、と そんな風に考えるほど狂おしいくらいその人のことを好きだったとしても、 そんな感情も、10年経つと唯々その人の幸せを祈る感情になった 俺がもう後人生で何回あれほどの鮮烈な感情を持つことが出来るのか分からないけれど、 俺は幸せだったのだろうと、心底思う

2015年7月11日 · 1 分 · 22 文字 · Keito Fukushima

自己分析

「セールスとシステムどっちだと思う?」 「インフラとかとヘルスケアだったらどっち?」 友人A 「セールス。(考えるまでもない)」 「んー。電気。感情よりの言葉を使える人間が少なそう」 「あー、オレが怒りを覚えて動くってか。分かりやすくていいな」 「今のスキルを十全に使うのはそっちだと思う」 友人B 「一見セールスっぽいけど、実はSE」 「なんで」「性質的にオマエが楽しいのはそっち」「あーw」 「でも出世できないよね」「あー、うんw」「よな」 「インフラは向いてないと思うよ」「まぁ確かに好みで言うとな」 「好み、好き、興味あることを選ぶべきかと」 「10年待とうかな、と。査定とか失うらしいけど、その後に及んだらもうどうでもいいじゃん?」 好み、性質で選ぶとSE、才能ならインフラ営業 友人C 「人と関わるのが向いてそう」 「どっちでも上手くやりそう」 「感性だけど、“打てる手を打ち終わって、展開される状況を裏でコソッっとニヘラァと見てる感じ”がしっくり来る」 バランサーって感じの特殊技能は飛び抜けてるけど、それ以外は平均×1.2って感じ。 でもお金にこだわる感じのイメージじゃなくて、モノとかヒトとかの動き全体を動かして笑う感じ φ (決めかねていたので)座右の銘より言葉探し 河村瑞軒 「死を決するの 何の難きことやある。ただ死すれば足る 難きは 死地にありて 生を決するにある」 ボワロー 「正しく思考されたものであるかぎり、それは必ず明瞭な表現をとる」 ダンテ 「汝の道を歩め。人々をして その言うにまかせよ」 オロシウス 「名声は、それを求める者から逃れ、それを無視する者を追う。 いかんとなれば、前者はその同年代の趣味に安住し、 後者はこれに反抗するからなり」 ベートーヴェン 「常に行為の動機のみを重んじて 帰着する結果を思うな 報酬への期待を 行為のバネとする 人々の一人となるな」

2015年3月17日 · 1 分 · 44 文字 · Keito Fukushima

英語の習得

勝ち取るためのお話 「英語と……出来れば後もう一つの言語位は、日本語と同じレベルで使えるようになるくらいまで習得しておいた方がいいよ(スラングまで習得する必要は無いけどな)」 「今のウチの会社の面接なんかも、一人の人をぐるっと重役で囲んで、日本語、英語で質問攻めにするんや」 「今は重役会議とかも全部英語や」 「インドとかも英語やからな……、本当に英語が出来ないと、仕事があらへんのよ……、」 「最低でも、映画くらいは字幕なしで分かり切るようにならへんといかんなぁ」 「それが最低条件や」

2015年1月2日 · 1 分 · 7 文字 · Keito Fukushima

jargon

小難しい専門用語で、 一言で難しい概念をつかめるようになったところで、 我々は新しい何かを発見したわけでは無い。 究極的に優先しなければならないのは、 『自分の目の前の問題を解決すること』 人間は歳を重ねるに連れて、自分へと向かっていく。 それは象徴的な情報なのかもしれない。 「難しい問題があります、ふたりの人間がその問題に取り組んでいます。 一人は命を懸けて、もう一人は左うちわで。 さぁ問題を解けるのはどっち?」 「前者だろ」 「はずれ、正解は頭のいいほうだよ」 雪姫は本当に良いことを言う サイエンスというのは、1つの宗教のような気もする、 しかし、事実を重視し、現実に沿わせていくってカタチにおいては、他の追随を許さない。 どちらもバランスよく。 ああ、脳科学で全てを解明することに対する嫌悪感を覚えたことを、俺は忘れないで居たい。

2014年11月24日 · 1 分 · 17 文字 · Keito Fukushima

[フランク=ディケーター] 毛沢東の大飢饉

毛沢東の大飢饉 史上最も悲惨で破壊的な人災 1958-1962 フランク・ディケーター     スターリン → 毛沢東 → ポルポトのコンボを調べている。 元々は成毛眞氏の「面白い本」で興味を持ったお話   φ   1958年〜1962年にかけて中国は地獄に落ちて行った 大躍進 15年以内に中国は英国に追いつき、追い越す   農民は人民公社に組み込まれ、全てが集団化された 共同食堂での食料の供給が、党の指令に人々を従わせる武器になった 4500万人が死んだ   あらゆる階層の人々が集団化という全体計画から逃れようとした 『飢饉が広がるに連れて普通の人々がいきのこれるかどうかは、嘘をつく、取りいる、隠す、盗む、騙す、おうりょうする、略奪する、密輸する、ごまかす、たくみにあやつる、差もなければ国を出し抜くと言った能力の有無にかかって行った』 こう言った手法のせいで、逆に政権の寿命を引き延ばす結果に繋がった   三門峡ダム ほぼすべての土掘りが無駄だったw なんだろうもう、こいつら冷静にトリップしてるだけじゃないのか……??   中国全体が一つの舞台だった。全人民が毛沢東向けの華やかなショーの出演者だった   こどもがクレヨンで描いたチャチな夢物語を無知のまま妄執のように実行したらやっぱり失敗した感じの印象を受ける やっぱりひとの気持ちを踏み躙るようなことをしてはならない   根本的に何かを改善するには3世代掛かる しかし国というリヴァイアサンが狂うとこうも簡単に転がり落ちる 縛っておいたほうが国民としては安全だ   社会主義も資本主義も欠点はきっとある 資本主義の欠点は多分、給与のバランス? 日本はどう足掻いても国内で食料が足りなくなると思うんだけど   『没落を前に見栄を張るのはお定まりのパターンだ』   『大量飢餓の時期に自力で生き延びる最も一般的な術は「希望」という名のシンプルな方策だった 村の状況がいかに逼迫していようと、毛主席は心底人民の利益を優先してくれるに違いないという希望だ。 皇帝の時代には、皇帝は慈悲深いが取り巻きは堕落しているという考え方が根付いていた。 中華人民共和国では尚更だった。 人々は現実に起きている日々の悲劇とメディアの喧伝するユートピアとの折り合いを付けなければならなかった。 そして、虐待の限りを尽くす幹部らは慈悲深い主席の命令を実行しない輩だという確信が生まれた。 人々の暮らす世界から遠く離れた「政府」と称される存在と「毛」と称される神にも匹敵するような存在は善だった。 もしも毛沢東がそこに気づいてさえいれば、全ては違っていただろう』   ……子供が理不尽に泣く世界は間違っているさ 暴力が支配する状態では高潔なものから死んでいく   φ   ≪概要とか≫ なんとなくだけれど、本としては「なんか調べていたらあまりにもえげつないことが分かったから、ちゃんと調べたら本当にやばかった(とてもヒトコトでは言い表せなかった)から理路整然と記述した」という印象を受ける。 非常にアメリカ的な(サイエンス至上主義的な)本だと思う。日本人には中々書くことが出来ないと思う、 これはきっと買っても損はしない類の本。   とりあえず1960~1963年の中国はそれなりに把握した気がする。 正義に目覚めると殺される、当然のことを言うことが出来ない世界。 被害妄想狂に振り回された国家。 なんで自分の非を認めないんだろう? 範囲が大きすぎたのかな? ...

2014年5月29日 · 1 分 · 86 文字 · Keito Fukushima

お金と我慢と楽しさ

すればするほど欲しくなる φ 昔、物欲も三欲に入らないことが不思議だった。 今では、まぁ、理由はなんとなくわかる気がする。 欲に限らず、捨てれば捨てるほど逆に生きやすくなるのかもしれない。 シンプルさにかこつけて記述するけれど、 デザインが金になることを体感したのは、iPhoneを持ってからだった。……、ああ、これは、金になるわ、と。 機能性と簡易さと……いろんなものが入ってるのに、それはそれは簡単な形をしている。 φ 年々、欲しいもののクオリティが上がるのだけれど(家とか土地とか嫁さんとか)、満足のグレードは段々と下がってゆく感じがする。(これも悟りの一種か) 我慢を覚えている訳では無いと思うが。……この感覚はうまく言葉にできないなぁ、世界が広がった、のかもしれないなぁ(これもこれで抽象的極まりない言葉だ) 世の中には自分よりも不幸な人がいっぱい居て、それと同時に自分よりも幸福な人もやや沢山いる。(あまり差別的な表現は好きではないが、日本という土地に生まれた時点である程度のイージーモードは保証されることを知ったというか) 野菜が美味しく感じるようになって、やりたいことと知りたいことは増える一方。同時に金と名誉が欲しくなって、その両方が圧倒的に足りないことを不服に感じる。 経済の基本は欠乏だろう。足りない。足りない。だから欲しい。用意するのは対価。お金。 金銭感覚は未だに正しく身についている気はしない。 (この場合の正しさっつーのは、いわばこれだけ使えばこれだけ残ってて……、という肌感覚だね。どうも整理整頓が肝要な気がする。今の俺には、どうも物が多過ぎる嫌いがあるにゃー) 俺の価値基準の基本は、相変わらず氷上の姫さんだ。 「物質的なものに未練を抱いてはいけませんよ」 というのが例によってあまりに深すぎる彼女の言だが俺はまだここまで至れてはいまい。(いや、感覚としては分かるのだ。彼女は俺の精魂込めたノートを一冊残らず笑顔で焼き払った) 物質的なものに未練を抱かない、というのは、ある種諦念の様なものを感じる。 その考えは美しいのだけれど、どうも難しい(というか、“色々あって最終的に至るところ"のような気がする。ーー洗練の前には必ず浪費があるように。 口惜しいことこの上ないが、師匠はこいつを体現していたように思う。憧れるが腹が立つ。なんだあれ。 最近読んだ新書に「Amazonを、“金を払えばいつでも保管してある荷物を引き出せる巨大倉庫と考えたらどうだろうか”、」という割とアレな極論がまことしやかに書いてあって、ちょっと笑った。いや、極論だけれどいい考えだと思う。 φ 今の俺の金銭感覚は等身大のものより大きいものな気がする。……それが俺の器の大きさを潜在的に示しているものであれば良いのだけれど。 価値のあるものにはキチンとした対価が要る。 対価が用意できないのならば、それは身の程を弁えて居ない醜悪なものであろう。 一方で欲を持たないのも俺にはどうも歪なものに思える。 要はこれもまたバランスだろう。 俺の大事な義妹が昔どっかで宣言してたのを思い出した。 「いっぱい稼ぐ!!」 金のある人のところに金が集まるのはまだいい。努力だろう。しかし、労働やモノの対価ではない、金と金の渡し舟でどうかして上手く稼ぐ人間が最も金を多く持つという、世相には資本主義のどうかした矛盾のようなものを感じる。……、そんなのは頭脳労働とは決して言えないし(だってサイエンスのように新しいものを彼らは決してその(逆説的に消費とも言える)行為から生み出さない) リスクを負えばいいという話でもあるまい……、まぁ、よくわからないことに口を出すべきではないか。 師匠は昔、「どんな時でも、金はあるところには有るんだ。……だから何処に何があるか正しく見極めて、そいつからそいつに損と自覚させないようにぶんどる。手段はなんでもいいさ、“損をさせない限り"な。損をさせる時は殺して殺される覚悟を決める時だけだな。これも等しく戦争だ」 なんて渡世人極まりないセリフを狂言回していたけれど、一部においては事実に思える。ーー極論だが。 また長くなってしまった。……結論は、そうだな。 職業に貴賤はないし、金の有る無しでその人の価値は測れない。 しかし、どんな形であれ、極端な支援を受けず、労働し、家計を支えて自活していけるのならば、その人とその人の金銭感覚は尊敬に値する様に思う。 ……、少なくとも、学生の身分で、安定収入がなく、金も地位も名誉も持ち合わせない今の俺は、そう思う。 追筆; 子供の教育費 俺は一人っ子だから、俺の母親は俺に二人分は使った、と豪語している。 まぁ全てが有意に実ったとは俺は口が裂けても言わないが、俺はそれだけの心血を俺に注いでくれ続けたことには、両親に対して尊敬と感謝の念を禁じえない。 しかしまぁ、(受けた側の)俺からしたら、それなりに不満は有るし、必要だったのかなー、と空々しく思うことも少なくなかったりもする。 家庭教師をしたのだ。塾講師として関わった生徒たちのことを感情に入れると、10人以上の生徒に関わった。(こんなはずではなかった。10人は、俺にとっては多いよ) これは俺の中で、「成長期の教育」っつージャンルで割と興味のあることで、延長線上(大元)には「俺に対する教育ってあんなにひつようだったのかよぅ?」っていう疑問があったりもする。 中高大と、俺の友人にはそれなり以上に優秀な人間が居て、俺はそいつらから俺なりに習慣や思想のようなものをパクりまくっていい感じに成長したと自負しているけれど、なんというか、そういう(1を聞いて10を知る、とまでは言わないけれど、5.6位までならば思い至る、と言ったような)“カン"が、よくない生徒は、あまり成績も振るわない気がする。 何事にも成功しやすい人間っつーのは、きっと習慣から作られてると俺は当たりをつけて、ユダヤ人の思想とか、古人の名著とかを読んでみたけれど、一番小難しくしっくりくるのは五輪書だった(話が逸れたな。この話は改めて。) 結局は熟練度というのは繰り返しに終始するが、その繰り返しがどういうところから来てどういう処へ向かうのか(つまり、何をすればどういう結果になるのか)、とか、 朧げながらにでも目的のようなものが想像できる子はそれなりに成長したように思う。(後は逆に盲目に淡々と熟せる人間も) 俺の動機が俺にはまだ分からない(ままここまで来てしまったのはちょっと謎なんだが) それが今の延長にあると良いのだけれど。 俺にはまだ分からない。

2014年3月8日 · 1 分 · 53 文字 · Keito Fukushima

What Do You Care What Other People Think?

「他人がどう思ったって構わないじゃない?」 アーリーン=ファインマン φ 卒論が終わりました。 卒論関係については3記事くらいに分けてがんばってまとめるとして、(使ったツールとか、時期ごとに何やってたかとか、反省とかをば) 今回はブログもなにもやってなかった空白の期間に考えたこととかをちょっと言葉にまとめておこうかと。 φ (4月頃から) 研究室配属が終わって、希望通りの研究室に配属されて(授業もなく)わりと暇になった俺は、今更ながら物理学とかコンピュータの開発された系譜みたいなのを調べはじめた。 そんなときにふと引き当てたのがこの本 ファインマンさんは超天才 リチャード=ファインマンの名前は、学部一年生の頃に(超苦労して取った)力学の授業で使ってた教科書でチラッと見た(しかも超ひねくれた問題のひねくれた解説の参考図書として)くらいで、俺はよく知らなかったんだけれど、この本を読んで一発で彼の人格と思想の虜になった。 φ タイトルこそ邦題では「超天才」なんてざっくばらんな訳になっているけれども(いや、大貫昌子さんの訳は全体的にファインマンのざっくばらんさ(率直さ?)のようなものをよく表していて、文句なく素晴らしいことをここに添えておく) クリストファー=サイクスの原題では、「No Ordinary Genius(ちょっと普通じゃない感じの天才)」ってなってて、俺的にはファインマンはニュアンスとしてはこっちのほうが気に入るんじゃないかなぁ~なんて思わなくもなかったり。 本書の構成は、ファインマンのセリフや、ファインマンの周りの人物へのインタビューを折々に挟むことで、1つのタイトルや事柄について、まるでファインマンと(ファインマンに関わりの深い人達と)一緒に話しているかのように感じさせるものになっている。 個人的には、アメリカ的な非常におもしろいジャーナリズムの様相を呈しているなぁ~と思う。 サイエンスに関して、こうも面白い本や文章や考え方があちこちに見当たるようになったら、この日本も理系離れなんかは問題にならないんじゃないかなぁ~……なんて思うのだけれど。 ――ファインマンは、ファインマンダイアグラムっていう、QED(量子電磁力学)におけるxy座標系みたいな感じのものと書き方? を発案したってことでノーベル賞を――量子電磁力学の発展に寄与――って名目で受賞している(with 朝永振一郎、ジュリアン・シュウィンガー) 本人は 「ノーベル賞受賞の電話が夜中の2時にかかって来た」し、 「おもしろいことを一番初めに発見するっていう栄誉」と、 「僕が発見したことを他の研究者が使ってくれる」 っていうことだけで僕は十分報われているんだよ。 とのたまって、受賞を断ろうとした (断るほうが注目を集めるよ!!と注意されて結局は微妙に嫌々受賞するw) ファインマンの功績は、コレの他にチャレンジャー号爆発事故の原因究明なんかに代表される。(きっと他にも色々と専門的なところでは在るのだろうが) 俺が書きたいのは彼の功績とかではないので今回は割愛する φ ……ファインマンの面白おかしいエピソードについてはちょっと語り尽くせないので、文中で見つけたいくつかの言葉と、それに対する俺の解釈を載せて本文章を締めくくろうと思う。 φ “What Do You Care What Other People Think?” 『他人がどう思ったって構わないじゃない?』 これはファインマンの最初の妻のアーリーンよく言っていたセリフだそうで、彼女と死に別れてからのファインマンの座右の銘のなかで、最も大事な、彼の根幹を占めるものになったという。 我が身を振り返る時や思い悩んだときに、この言葉に見合う自分で居ることが出来ているか、鑑みたのだろうな、と俺は思う。 はじめにこの言葉に触れた時、俺は苦笑とともに、身勝手な言葉だなぁ~、なんて感想を抱いたものだけれど、よくよく読んでいくと、決してそんなことはないのだ。 この言葉は多分、言葉にしていないレベルで他人への気遣いを前提条件としている様に思う。 他人がどう思ったって、なんていう言葉は、傍若無人に自分勝手に振る舞ってしかるべき、ということを推奨しているわけでは決して無くて、むしろ他人への気遣いは前提として『絶対にするもの』なのだよね。 だから、この言葉は、元も子もない付け足し方をするのならば、 『(ちゃんと他人への気遣いを果たしたのならば、それ以上は)他人がどう思ったって構わないじゃない? (だから、ちゃんと自分で考えて決めたことを、最後までやるのよ?)』 というものなのではなかろうか。 shame(気恥ずかしさ)や、scum of the earth(周りの目)、に左右されやすいのが人の性で、それを感じるのは人として当然のことなのだよね。 でも、それを理由にやったほうがいいこと、やったほうがいいと思ったこと、やらないと未来に困ること、やらないと誰かが困ること。そういう事態に陥りかねないことをやらないのは、きっとよくないことで やらない後悔こそが狂おしいのだろうな、と。俺は思う。 φ 俺がガキの頃に氷上にもらった訓戒の中で、マジで元も子もない極論の最たるものとして、「なんでも出来ろ」 ってものがあるんだよね。 オレこれはじめに言われた時に、即答で「超無理」って答えたの、今でも覚えてるんだけど、この言葉の意味するところは、本当に「なんでも出来ろ」っていう異次元な推奨じゃなくて、 「ウチの家訓が『なんでも出来ろ』なんて、超無茶ぶりものだから、とりあえず出来るようになってやろうか」 っつー前向きな姿勢をもつことなんですよー、って悟されたんだよね。 アーリーンさんのこのセリフは、きっとそういう物事に対する取っ掛かりのハードルを下げるためのものなんじゃないかなぁ~って。 俺はそんな風に思うんだよ。 φ 『我々が今生きている世の中に責任を持つ必要はない』 これはジョン・フォン・ノイマンの言葉だそうな。 ――文中では、「積極的無責任さ」、とか、「社会的無責任感」、といった言葉が見受けられた。 まぁ、、ファインマンは原爆の開発に携わってるからこの言に救われた部分が大きいのだろうな、と思う。 しかし思うに、我々は物事の責任を誰かしらの一個人に押し付け過ぎなのではなかろうか、そういう傾向に有りはしまいか、と思うのだ。 社会的な部分での役割といったものは、個人による意思よりもむしろ状況の強制力がそうさせる、という部分が大きいんでねぇかなぁ、なんて、俺は思う。 東郷平八郎だってあんなタイミングで元帥になりたくはなかっただろうて…… ファインマンはこのセリフに出会ってから、社会的無責任感を信条としたらしい。 でも、ファインマンは誰よりも最高の物理学の授業を誰よりも楽しんで開講していたしそのための準備を惜しんだことはなかったし、生徒の面倒を喜んで見たらしい。 (しかし管理職にはならなかったそうなw 自由スキー) ...

2014年2月23日 · 1 分 · 116 文字 · Keito Fukushima

[堀江貴文] ゼロ

ずっと買っておいておいた本を積み上げてある本の山から見つけ出したのでさらっと読書録のようなものをつけてみようと思う。 φ 読書録というほど大したものではないけれど φ 無目的にブログを始めたというわけではなくて、そうだね、この場所は俺にとっては**「思想の貯蔵庫」**なんだよね、 だから目的として「考えたこと、思ったこと、感じたこと」を忘れないように、というものに適うのであれば、どんなものでも記入して行こうと思う (今回わざわざこんなことを書くのは、俺の中でこの場所をどういうものにすればいいのか、決まってないから) 自分にとって最適なレイアウトになって行くまでには、いろいろと試してみないとね…… 最適というのも変な話だね。 変わっていくことと保守とのバランスの良さが最適の本質なのかもしれないね φ 文章に対して感じたことは、そんなに凄い文章でもないなぁ、と。 例えば凄い詩的な表現が使われているわけではないし、 身震いするような描写があるわけではない。 (いきなり余談だけれど、横溝正史の八つ墓村は凄まじい文章だった絶対読んで損はないと思う。読まないと損な気もする。) しかし、実際的ではあったように感じる。 言葉を足すと、一意的な文章だった。 淡々としていたんだよね。文章が。 きっと綴る時に、スラスラと出てきた文章なのではないかな、と感じた。 ずっと溜め込んできて、自分の中にじくじくと蛆のように育った汚い感情が、キレイに吐出されている、 そんな印象を受けた文章だった。 φ オマエの思考は毒物だ っていう言葉を偶にもらうことがあって、その言葉に僕は多少の好感と、どうしようもない諦めのような感情を同時に抱く。 その言葉は仕方のないものの様に感じるのだ。 僕の起点は一人の女の人で、俺はその人に気に入られよう、その人ならなんて考えるかな。褒めてくれるかな。 そんなことばかりを考えて幼少期を過ごして、 なんで俺はあの人と離れてしまったのだろう、 あんなにも唯物に感じていたのに。 お慕い申し上げていたのに。 ああ、でもコレはおれの身勝手な感情で、 きっと俺よりも師匠の方があの人の隣にいるに相応しくて、と そんな喪失感に苛まれて俺は青年期を過ごしたから。 まぁ、しかたがないと思う。それはなかなかにレアな人間に(結果的に)なるだろうね、と。冷静に(今となっては)思う。 自分の中の判断基準に 「あの人ならどう思うかな、」 という客観的な自問が在るのは、俺にとっては自然なことだけれど、他人にとってはそうでもないらしい。 オマエの人生は物語的だと皮肉られることがたまにあるけれど、ここに起因しているのではないかと思う。あとは圧倒的なまでの内省か。 φ 堀江さんは、福岡の八女の出身なそうだ。 現状が嫌で嫌で仕方がなくて、しかし彼は優秀だった。 そこにはきっと理由があるのだと思う。 納得の回路がゲームのようだな、と、俺は思った。 後は結果的に自分の世界に向いたのだろうな、と思う。 逃避の先が内省だった? なんでもいいけれど、この人は俺よりもカワチせんせーと話が合いそうだな、と思った。(あの人が、おもしろい、と感じて納得しそうな人間だと思った) 違うな、内省じゃなくて、現状の打破の為の前向きな努力だったのだろうな。 彼にとっての成功体験の列挙はどうあがいても彼の行動の帰結で、(きっと当時の彼にとってはそこまで論理的な思考の帰結では無かったのだろうが)(後から考えてみると、というアレだ) その辺りのセンスが素晴らしく前向きで現実的だったのだろうな、と思う。 氷上が俺の受け皿になってくれなかったら、俺はきっと壊れてどこかおかしくなっていたと思うけれど(そのおかしさというものはきっと社会との隔絶、という形で現れる)(何故かと言うと、悪いことをするようになると思うからだ) 彼にはそれが目の前のことを自分の思うとおりにするその究極の一手が、勉強だったのだろうな、と思うのだ φ 僕は子供の頃、それなりにレベルの高い英才教育のようなものを、かなりいびつな形で受けさせられて、 そう、俺が嫌々やらされて会得した掛け算のようなものをその場で自分で思いついてこなす友人の答え(それはとても遅くて拙いものだったけれど、答えとしては間違っていない、正解だった)を見て、 「俺はやり方を教えられてやった、こいつは知らないまま自分で考えだした、――どっちが偉いのだろう」 ということまで考え至ったときに、自然と笑いがこみ上げてきて、俺は泣くように笑い続けた。ああ、俺の時間は、俺の意思のない時間はすべて無駄だったな、と。 俺の動機はきっと親からの否定の連続で潰えてしまったよ。 そこまで強い意思を抱けなかった、オレも悪いのだろうね。 けれどこの世界に目の前の好きな人がじぶんのものにならないのならばいっそころしてしまえ、という感情以上に強烈な衝動は、 それに匹敵するくらいのものは、俺の中についぞ生まれなかった。 きっと親元に居たくない、という感情の強さで、俺は堀江貴文さんに負けているのだろうな、と。 俺は彼の文章を読んで思った。まぁ俺が親と合わないのは割りと俺側に問題が有るようのも思うので。箱のなかに気づいたら違うOSが入っていたようなもんだ。親から見れば。(俺から見たら、そのOSの方が性に合っていた、というだけで) 彼はどうしようもなくやはり人間なのだ。 マスコミの報じる彼の切り取られた一面と、彼の内面はやはり違う。 マスコミが離れて、彼が自分を(意識しようとしまいと)演じることをしなくても良くなったことは、救いのように思う。 φ ≪追伸≫ いやいやいやいや、こんなことより卒論書けよ、僕

2014年2月2日 · 1 分 · 68 文字 · Keito Fukushima