インド旅行①

M1の夏にインドに行こう、って話を、クラタとしてた。 正直、俺は免疫系そんなに強い自信がないので、そのへんの死なないためのフォローを、位のテンションなんだけど、 インドのことを知れば知るほど、いいのかw これw となる、。 φ この世界は悪意にも善意にも満ちて居る 俺は、どっちもあるから、いいのだ、と思う。 どちらか片方は、歪なのではないかと思う。 日本は割りと頑張って前者を排除した感が(それでもクズは居るし、人間誰しもどこか狂ってるのは百も承知だが)ある 悪意サイドと善意サイドの両方を見たいと思う。スラムドッグ・ミリオネア 自分の常識が通用しない世界を、崖の淵まで見に行きたい 個人的には、カリヤの手配した上海旅行の時みたいに、パックツアー、だけど自由。 みたいなのがいいな、と思う ガンジス川では安藤忠雄も悟りを開いた 今までの自分が小さなものに思えるのだろうか ガンジス川のほとりで、なんかぼんやりとしていたい 熱に浮かされて、死が近くて ものと人に溢れていて。 何かが違うのかね。 持ち物 水筒、安全な水、 安全確保の知識、 誰かのなぞり、用意することのチェックリスト 用意することのチェックリストは必要だね。 ひと通り検索してリストアップしないと 行きたいところ、文化の密集地。 貧しさの行き交うところ、死に近いギリギリのところ 激烈なところ、鮮烈なところ。 都市部、川の流域 安全を確保する技法。言語、体術、文化に対する理解。 インドは一応親日国。 だけどまぁ、アテにはならねぇさね。 φ よく調べて、死なないように。 今の段階で考えられるのはここまでだろうか。 次:安全を確保するためのチェックリスト、予算

2014年5月26日 · 1 分 · 37 文字 · Keito Fukushima

お金と我慢と楽しさ

すればするほど欲しくなる φ 昔、物欲も三欲に入らないことが不思議だった。 今では、まぁ、理由はなんとなくわかる気がする。 欲に限らず、捨てれば捨てるほど逆に生きやすくなるのかもしれない。 シンプルさにかこつけて記述するけれど、 デザインが金になることを体感したのは、iPhoneを持ってからだった。……、ああ、これは、金になるわ、と。 機能性と簡易さと……いろんなものが入ってるのに、それはそれは簡単な形をしている。 φ 年々、欲しいもののクオリティが上がるのだけれど(家とか土地とか嫁さんとか)、満足のグレードは段々と下がってゆく感じがする。(これも悟りの一種か) 我慢を覚えている訳では無いと思うが。……この感覚はうまく言葉にできないなぁ、世界が広がった、のかもしれないなぁ(これもこれで抽象的極まりない言葉だ) 世の中には自分よりも不幸な人がいっぱい居て、それと同時に自分よりも幸福な人もやや沢山いる。(あまり差別的な表現は好きではないが、日本という土地に生まれた時点である程度のイージーモードは保証されることを知ったというか) 野菜が美味しく感じるようになって、やりたいことと知りたいことは増える一方。同時に金と名誉が欲しくなって、その両方が圧倒的に足りないことを不服に感じる。 経済の基本は欠乏だろう。足りない。足りない。だから欲しい。用意するのは対価。お金。 金銭感覚は未だに正しく身についている気はしない。 (この場合の正しさっつーのは、いわばこれだけ使えばこれだけ残ってて……、という肌感覚だね。どうも整理整頓が肝要な気がする。今の俺には、どうも物が多過ぎる嫌いがあるにゃー) 俺の価値基準の基本は、相変わらず氷上の姫さんだ。 「物質的なものに未練を抱いてはいけませんよ」 というのが例によってあまりに深すぎる彼女の言だが俺はまだここまで至れてはいまい。(いや、感覚としては分かるのだ。彼女は俺の精魂込めたノートを一冊残らず笑顔で焼き払った) 物質的なものに未練を抱かない、というのは、ある種諦念の様なものを感じる。 その考えは美しいのだけれど、どうも難しい(というか、“色々あって最終的に至るところ"のような気がする。ーー洗練の前には必ず浪費があるように。 口惜しいことこの上ないが、師匠はこいつを体現していたように思う。憧れるが腹が立つ。なんだあれ。 最近読んだ新書に「Amazonを、“金を払えばいつでも保管してある荷物を引き出せる巨大倉庫と考えたらどうだろうか”、」という割とアレな極論がまことしやかに書いてあって、ちょっと笑った。いや、極論だけれどいい考えだと思う。 φ 今の俺の金銭感覚は等身大のものより大きいものな気がする。……それが俺の器の大きさを潜在的に示しているものであれば良いのだけれど。 価値のあるものにはキチンとした対価が要る。 対価が用意できないのならば、それは身の程を弁えて居ない醜悪なものであろう。 一方で欲を持たないのも俺にはどうも歪なものに思える。 要はこれもまたバランスだろう。 俺の大事な義妹が昔どっかで宣言してたのを思い出した。 「いっぱい稼ぐ!!」 金のある人のところに金が集まるのはまだいい。努力だろう。しかし、労働やモノの対価ではない、金と金の渡し舟でどうかして上手く稼ぐ人間が最も金を多く持つという、世相には資本主義のどうかした矛盾のようなものを感じる。……、そんなのは頭脳労働とは決して言えないし(だってサイエンスのように新しいものを彼らは決してその(逆説的に消費とも言える)行為から生み出さない) リスクを負えばいいという話でもあるまい……、まぁ、よくわからないことに口を出すべきではないか。 師匠は昔、「どんな時でも、金はあるところには有るんだ。……だから何処に何があるか正しく見極めて、そいつからそいつに損と自覚させないようにぶんどる。手段はなんでもいいさ、“損をさせない限り"な。損をさせる時は殺して殺される覚悟を決める時だけだな。これも等しく戦争だ」 なんて渡世人極まりないセリフを狂言回していたけれど、一部においては事実に思える。ーー極論だが。 また長くなってしまった。……結論は、そうだな。 職業に貴賤はないし、金の有る無しでその人の価値は測れない。 しかし、どんな形であれ、極端な支援を受けず、労働し、家計を支えて自活していけるのならば、その人とその人の金銭感覚は尊敬に値する様に思う。 ……、少なくとも、学生の身分で、安定収入がなく、金も地位も名誉も持ち合わせない今の俺は、そう思う。 追筆; 子供の教育費 俺は一人っ子だから、俺の母親は俺に二人分は使った、と豪語している。 まぁ全てが有意に実ったとは俺は口が裂けても言わないが、俺はそれだけの心血を俺に注いでくれ続けたことには、両親に対して尊敬と感謝の念を禁じえない。 しかしまぁ、(受けた側の)俺からしたら、それなりに不満は有るし、必要だったのかなー、と空々しく思うことも少なくなかったりもする。 家庭教師をしたのだ。塾講師として関わった生徒たちのことを感情に入れると、10人以上の生徒に関わった。(こんなはずではなかった。10人は、俺にとっては多いよ) これは俺の中で、「成長期の教育」っつージャンルで割と興味のあることで、延長線上(大元)には「俺に対する教育ってあんなにひつようだったのかよぅ?」っていう疑問があったりもする。 中高大と、俺の友人にはそれなり以上に優秀な人間が居て、俺はそいつらから俺なりに習慣や思想のようなものをパクりまくっていい感じに成長したと自負しているけれど、なんというか、そういう(1を聞いて10を知る、とまでは言わないけれど、5.6位までならば思い至る、と言ったような)“カン"が、よくない生徒は、あまり成績も振るわない気がする。 何事にも成功しやすい人間っつーのは、きっと習慣から作られてると俺は当たりをつけて、ユダヤ人の思想とか、古人の名著とかを読んでみたけれど、一番小難しくしっくりくるのは五輪書だった(話が逸れたな。この話は改めて。) 結局は熟練度というのは繰り返しに終始するが、その繰り返しがどういうところから来てどういう処へ向かうのか(つまり、何をすればどういう結果になるのか)、とか、 朧げながらにでも目的のようなものが想像できる子はそれなりに成長したように思う。(後は逆に盲目に淡々と熟せる人間も) 俺の動機が俺にはまだ分からない(ままここまで来てしまったのはちょっと謎なんだが) それが今の延長にあると良いのだけれど。 俺にはまだ分からない。

2014年3月8日 · 1 分 · 53 文字 · Keito Fukushima

What Do You Care What Other People Think?

「他人がどう思ったって構わないじゃない?」 アーリーン=ファインマン φ 卒論が終わりました。 卒論関係については3記事くらいに分けてがんばってまとめるとして、(使ったツールとか、時期ごとに何やってたかとか、反省とかをば) 今回はブログもなにもやってなかった空白の期間に考えたこととかをちょっと言葉にまとめておこうかと。 φ (4月頃から) 研究室配属が終わって、希望通りの研究室に配属されて(授業もなく)わりと暇になった俺は、今更ながら物理学とかコンピュータの開発された系譜みたいなのを調べはじめた。 そんなときにふと引き当てたのがこの本 ファインマンさんは超天才 リチャード=ファインマンの名前は、学部一年生の頃に(超苦労して取った)力学の授業で使ってた教科書でチラッと見た(しかも超ひねくれた問題のひねくれた解説の参考図書として)くらいで、俺はよく知らなかったんだけれど、この本を読んで一発で彼の人格と思想の虜になった。 φ タイトルこそ邦題では「超天才」なんてざっくばらんな訳になっているけれども(いや、大貫昌子さんの訳は全体的にファインマンのざっくばらんさ(率直さ?)のようなものをよく表していて、文句なく素晴らしいことをここに添えておく) クリストファー=サイクスの原題では、「No Ordinary Genius(ちょっと普通じゃない感じの天才)」ってなってて、俺的にはファインマンはニュアンスとしてはこっちのほうが気に入るんじゃないかなぁ~なんて思わなくもなかったり。 本書の構成は、ファインマンのセリフや、ファインマンの周りの人物へのインタビューを折々に挟むことで、1つのタイトルや事柄について、まるでファインマンと(ファインマンに関わりの深い人達と)一緒に話しているかのように感じさせるものになっている。 個人的には、アメリカ的な非常におもしろいジャーナリズムの様相を呈しているなぁ~と思う。 サイエンスに関して、こうも面白い本や文章や考え方があちこちに見当たるようになったら、この日本も理系離れなんかは問題にならないんじゃないかなぁ~……なんて思うのだけれど。 ――ファインマンは、ファインマンダイアグラムっていう、QED(量子電磁力学)におけるxy座標系みたいな感じのものと書き方? を発案したってことでノーベル賞を――量子電磁力学の発展に寄与――って名目で受賞している(with 朝永振一郎、ジュリアン・シュウィンガー) 本人は 「ノーベル賞受賞の電話が夜中の2時にかかって来た」し、 「おもしろいことを一番初めに発見するっていう栄誉」と、 「僕が発見したことを他の研究者が使ってくれる」 っていうことだけで僕は十分報われているんだよ。 とのたまって、受賞を断ろうとした (断るほうが注目を集めるよ!!と注意されて結局は微妙に嫌々受賞するw) ファインマンの功績は、コレの他にチャレンジャー号爆発事故の原因究明なんかに代表される。(きっと他にも色々と専門的なところでは在るのだろうが) 俺が書きたいのは彼の功績とかではないので今回は割愛する φ ……ファインマンの面白おかしいエピソードについてはちょっと語り尽くせないので、文中で見つけたいくつかの言葉と、それに対する俺の解釈を載せて本文章を締めくくろうと思う。 φ “What Do You Care What Other People Think?” 『他人がどう思ったって構わないじゃない?』 これはファインマンの最初の妻のアーリーンよく言っていたセリフだそうで、彼女と死に別れてからのファインマンの座右の銘のなかで、最も大事な、彼の根幹を占めるものになったという。 我が身を振り返る時や思い悩んだときに、この言葉に見合う自分で居ることが出来ているか、鑑みたのだろうな、と俺は思う。 はじめにこの言葉に触れた時、俺は苦笑とともに、身勝手な言葉だなぁ~、なんて感想を抱いたものだけれど、よくよく読んでいくと、決してそんなことはないのだ。 この言葉は多分、言葉にしていないレベルで他人への気遣いを前提条件としている様に思う。 他人がどう思ったって、なんていう言葉は、傍若無人に自分勝手に振る舞ってしかるべき、ということを推奨しているわけでは決して無くて、むしろ他人への気遣いは前提として『絶対にするもの』なのだよね。 だから、この言葉は、元も子もない付け足し方をするのならば、 『(ちゃんと他人への気遣いを果たしたのならば、それ以上は)他人がどう思ったって構わないじゃない? (だから、ちゃんと自分で考えて決めたことを、最後までやるのよ?)』 というものなのではなかろうか。 shame(気恥ずかしさ)や、scum of the earth(周りの目)、に左右されやすいのが人の性で、それを感じるのは人として当然のことなのだよね。 でも、それを理由にやったほうがいいこと、やったほうがいいと思ったこと、やらないと未来に困ること、やらないと誰かが困ること。そういう事態に陥りかねないことをやらないのは、きっとよくないことで やらない後悔こそが狂おしいのだろうな、と。俺は思う。 φ 俺がガキの頃に氷上にもらった訓戒の中で、マジで元も子もない極論の最たるものとして、「なんでも出来ろ」 ってものがあるんだよね。 オレこれはじめに言われた時に、即答で「超無理」って答えたの、今でも覚えてるんだけど、この言葉の意味するところは、本当に「なんでも出来ろ」っていう異次元な推奨じゃなくて、 「ウチの家訓が『なんでも出来ろ』なんて、超無茶ぶりものだから、とりあえず出来るようになってやろうか」 っつー前向きな姿勢をもつことなんですよー、って悟されたんだよね。 アーリーンさんのこのセリフは、きっとそういう物事に対する取っ掛かりのハードルを下げるためのものなんじゃないかなぁ~って。 俺はそんな風に思うんだよ。 φ 『我々が今生きている世の中に責任を持つ必要はない』 これはジョン・フォン・ノイマンの言葉だそうな。 ――文中では、「積極的無責任さ」、とか、「社会的無責任感」、といった言葉が見受けられた。 まぁ、、ファインマンは原爆の開発に携わってるからこの言に救われた部分が大きいのだろうな、と思う。 しかし思うに、我々は物事の責任を誰かしらの一個人に押し付け過ぎなのではなかろうか、そういう傾向に有りはしまいか、と思うのだ。 社会的な部分での役割といったものは、個人による意思よりもむしろ状況の強制力がそうさせる、という部分が大きいんでねぇかなぁ、なんて、俺は思う。 東郷平八郎だってあんなタイミングで元帥になりたくはなかっただろうて…… ファインマンはこのセリフに出会ってから、社会的無責任感を信条としたらしい。 でも、ファインマンは誰よりも最高の物理学の授業を誰よりも楽しんで開講していたしそのための準備を惜しんだことはなかったし、生徒の面倒を喜んで見たらしい。 (しかし管理職にはならなかったそうなw 自由スキー) ...

2014年2月23日 · 1 分 · 116 文字 · Keito Fukushima

ハヤタの天才性

ちなみに僕は天才という言葉が嫌いだ φ どういう人が天才と評されるかを考えた時に、 ある集団のおおよそ1.2倍、(なにかを)上手くこなすことが出来るのならば、その人は(その集団においては少なくとも)天才と評されるようになるのではないか、 と、俺は思っている。 細かく定義したところできっと意味はないだろうし、大抵の物事というものは『時と場合による、』という超絶便利な結論が大半を占めるのだから。(今回もそういう話ではあるだろう) 1.2倍出来ることには、理由があると思う、 たとえば、それだけ多く時間を使っていたり、 たとえば、それだけ効率を意識していたり たとえば、工夫して違うやり方を編み出していたり、 たとえば、上手くやるためにたくさんの文献で読んだ経験を活かしたり たとえば、単純に既存の無駄を省いたり たとえば、他人が知らないツールを使っていたり たとえば、過去の似た経験が活きていたり、 そしてたとえば、上手くいくための考え方をしていたり。 ……考え方。 φ 時間という絶対的な支配者をどう捉えるか、それこそ人によるのだろうが、僕は最近こんな風に捉えている 「平等に与えられる、浪費可能な資源」 と。 φ ユダヤの諺だけれど、 「場所を取らない物が無いのと同じ様に、 時を持たずして生まれてくる人間も居ない」 ……凄い言葉だと思う。少なくとも、俺は自分の中からこの言を生み出せる自信はない。 私事ではあるけれど、 俺は割と無駄に便利な小物が好きで、(その無駄に便利な小物というものは、後から考えるとそこそこに、無駄な物、に分類される上に、(これは趣味だが)本に関しては、その本と、本に書いてある内容が(少しだけ未来の)自分にとって必要、もしくは一読の価値アリ、と断じた瞬間に読む時間があれば際限なく買うが故、金遣いが荒い方だと自分を捉えている。(まぁ、その買ったものを無駄にしない位には使い倒している気はするのだが) 最近は部屋に物が溢れていて、場所を取らない物は無いという言葉は自戒の念を禁じ得ない(笑) そして同時に、時間についてのユダヤの考え方に感動したのだよね。なるほど、と。 φ 時間は大事だと最近、切に感じる。 人生は後半の方がはやく過ぎ去る様に感じる理由は(答え合わせはまだだけれど)過ごした時に比例するだけの経験から、一瞬でより多くのことを感じ、考える様になって、だからこそ多くのことをしたくなるからではなかろうか。そして同時に残された刻限を(これもまた同じ様に、知識と経験から)想像出来るが故に、焦燥感と危機感に、意識の何処かで苛まれるからなのではないか、と思う。……、ああ、後、考えたことを実行するだけの体力と精神力の衰退もあるのだろう。バイタリティ大事よね……、 しかしそれは懸命に生きたからこその感覚なのかもしれないと思う。だから僕にはまだわからない。 早く感じるということにはきっと理由があるのだろう。……僕にはまだわからない。 人間は、自分にとって新しいことをしている時は、長く時を感じる、というTIPSを読んだ。(信憑性はわからない)しかし、そういうものかもしれないな、とも何処かで思う。 新しいことをするのはストレスであると同時に愉しみなのだろうな、と思う。 一生(どのような形であれ)勉強というものが続くのは、なんとなはなしに今の時点で予測がつくのだけれど、俺は「既存のものをよりよくする」エンハンスenhanceという概念がとても好きだ、愛している。……、いや、、今回関係ないな、この話は。 φ 年をとるにつれて安寧を求めるようになるのは自然なことだし、知らないこと、というのは減っていくのだろう、と俺は考えている。 まるで安寧を悪いことの様に言っている様にも捉えられるかもしれないがそんなつもりは無論、一切ない。それを得るための努力以上に尊いものはこの世界にそうそう無いと思う。僕も安定が欲しい。(そして失いたくない) この世界で味わいうる全感情を味わってから死にたい。 それにはどうも孤独と愛が足りない。 (やっと家族の軛から一時解放されるので、存分に力を振るおうと思う。……決意は無為になることがどうも多いので考えた、程度に留めおこうと思う。(どうもそのほうが試みというものは成功しやすいようだ) φ これもまたユダヤの諺だけれど、 「人間は暇になったら政治を始める」 そうだ、(この言葉の意味はまだはかることが出来ていないけれど、世相を見ていると自然と納得がいくような気はする) φ なんだか話が逸れ過ぎているので話を戻そう。 ……天才性と考え方について。 僕は、他人に感心出来る点があれば、それを自分なりのレイアウトで可能な限り真似して取り入れようとする習性がある。(高校の近しい友人にも多く見受けられた。要は;『勝手に学ぶ(パクる)』) その行為は単純に楽しい。 φ 天才性と考え方。 友人に一人、(これは人間に対して使う言葉ではないと強く思うけれど、)「ふつうに意味がわからない」人間が居る。 ……彼のことは俺は理解を半ば放棄している。きっと何処か似ているにも関わらずカバー範囲が違う。 (この感覚は大して珍しいものではないようだ。……、ただ、彼に関しては恐らくレアケースが過ぎるのだろうと思う。 まぁいい。 結論に急ごう。 φ 菊池隼太の天才性の要因は幾つかあると思うのだけれど、 一つ、とても大きな要素として、 「イメージの抽象的深さと、それを現実世界に持ち出す手法についての勘の良さ」 は大きな要因ではないだろうか φ 後の俺にも分かるように言葉を加えておくと、 「イメージの抽象的深さ」というのは、言語化しない段階でのイメージのこと。 状況を規定した後はパフォーマーに任せて、「結果として上手くいくかどうか」のみを判断するという様な。 彼の言葉だが、 「『全てのことは想像に始まって、想像に終わる。いいか?想像出来て、出来ないことを俺に教えてくれ。 人間が飛ぶことが出来ないのは飛ぶ構造と機構と、それを動かす様子を委細、想像出来ないからだ。だからそれ(人間が外部ツールを使わずして飛ぶこと)は不可能だ。 ――逆に想像が詳細にわたって可能な上で出来ないことなんてこの世に無いんだよ、』 って、俺の親父は俺に常に言っていたんだ」 「んー、全員が楽しむことが出来る状況は、俺は想像出来なかったんだよね。無人島に、あの人数で行って、何人かは確実にどうしていいか分からなくなる。 そこでお前やドヤさんみたいな人間を、あの"島"っつー空間に置くんだよ。そしたらああ、これは大丈夫だ。パースとして足りるわ、ってなったんだよ。 俺がやるべきことは、端っこでつまらなさそうにしてる奴を楽しい側に叩き込むことで、それでなんとかなりそうだったんだよね。」 「いや、イメージが湧かへん。絶望的やw」 「昔、数学者が女と付き合ってて、結婚寸前までいってフられたんだよ、あなたのことがわからないって。 そしたらその後で別の、これまたいい女が、 そうね、あなたとの結婚生活は想像出来るわ、 っていって、そのいい女と結婚することになったんだよ、 俺はドラマのそのシーンを観て、いいなぁ、って思ったんだよね」 ...

2014年1月22日 · 1 分 · 147 文字 · Keito Fukushima